勤王派と佐幕派で対立した幕末の京都において、どちらの志士たちをも魅了した芸者がいました。
その芸者の名前は「中西君尾(なかにしきみお)」。
過激な討幕派の長州藩士から対立した新選組隊員の心まで奪った、幕末のアイドル「中西君尾」の生涯を調べてみました!
美貌の芸者「中西君尾」の生い立ち
中西君尾は、1844年 丹波船井郡に生まれました。
父は侠客、母は美貌で名の通った人物で、君尾は母譲りの美少女に成長します。
ところがこの美貌が災いし、君尾の身に思いがけない不幸が起こってしまいます。
君尾を「勤王芸者」にした殺人事件
美しい美少女に育った君尾は、出羽安(でばやす)という質の悪い侠客に一目ぼれされてしまいます。
そして出羽安は君尾を自分のものにするために、なんと君尾の父を惨殺するという手段にまで出てしまうのでした。
しかし父を殺され誘拐された君尾は、肥前鍋島藩の勤王の志士によって助け出されます。
これがきっかけで、君尾は勤王派と佐幕派が対立しあう京都に置いて、「勤王派びいき」の芸者になっていくのです。
中西君尾に心を奪われた志士たち
父を亡くした君尾は、京都祇園で芸者になることに。
持ち前の美貌に加えて熱心に芸事を訓練した君尾には、多くの志士たちが心を奪われていきます。
君尾を一番に気に入った「高杉晋作」
まず最初に君尾を気に入ったのは、粋な遊び人として知られる長州藩の高杉晋作でした。
ただし晋作が君尾に目をつけたのは自身の愛人としてではなく、同じ長州藩士の「井上聞多(後の井上馨)」のため。
君尾と井上聞多は高杉晋作に引き合わされて、恋人同士になります。
君尾に命まで救われた「井上聞多」
高杉晋作に君尾を引き合わされた井上聞多は、君尾に夢中になるとともに、君尾自身も聞多の素朴で男らしい人柄に惚れ込んでいったといいます。
2人は深く愛し合いますが、聞多のイギリス留学のため一時離れ離れに。
しかしその時に君尾が聞多に送った「鏡」が、その後に起こった襲撃事件の際に刀の盾となって聞多の命を守ったため、聞多は後々までも君尾に深く感謝するようになります。
勤王派と対立した新選組「近藤勇」は、振られても君尾の命を守った
君尾を気に入ったのは勤王派の志士だけでなく、彼らと対立した佐幕派の志士たちもいました。
その中の一人が新選組の近藤勇です。
近藤勇は君尾を熱心に口説きますが、君尾は「勤王派にならなければ」と首を縦にふりません。
つまり近藤勇は振られてしまったわけですが、のちに君尾が新選組の屯所に連行された際には、
「新選組は芸者を殺すような無益な殺生をしない」
と笑い飛ばして、君尾を解放します。
子供ももうけ最後の恋人になった「品川弥次郎」
このようにたくさんの志士に愛された君尾が最後に結ばれたのは、維新後に内務少輔・農務省大輔などを歴任した品川弥次郎でした。
2人は「巴」という名の娘ももうけましたが、君尾は維新後も芸者を続け、1918年に75歳で亡くなりました。