津田梅子と言えば、
最年少留学生
初の帰国子女
現在の津田塾大学の創設者
であることが有名で、とても華々しい経歴の持ち主です。
ところがその裏側の、彼女の生い立ち・留学中の苦労・帰国後の苦悩などは、詳しく知られていません。
そこでここでは、何回かに分けて「津田梅子の生涯」を詳しく解説していきたいと思います!
梅子の人生に大きな影響を与えた父「津田仙(せん)」
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梅子の人生を語るうえで欠かせないのは、父・仙の存在です。
そこでまず、梅子の父・津田仙について解説しようと思います。
語学力を買われて津田家の婿養子になる仙
梅子が生まれた津田家は、徳川御三卿の一つ「田安家」に仕える武士の家柄でした。
その津田家に、梅子の父・仙は婿養子に入ります。
もともとは佐倉藩士の養子としてオランダ語や英語を学んでいましたが、語学力を買われて津田家に請われたのでした。
時代は「開国・外国との貿易開始」。
当時、アメリカとの国交が始まり、英語を話せる人材への需要が高まっていました。
でも、オランダ語はともかく、英語を話すことが出来る人物は滅多にいません。
そんな中、仙は貴重な人材として、津田家隆盛のために婿に迎えられたのでした。
のちに娘の梅子はアメリカへ留学することになりますが、すでに父の仙のころから英語に親しむ土壌が出来上がっていたと言えます。
実は梅子は次期将軍候補と「いとこ同志」だった!
ここであまり知られていない事実なのですが、実は梅子は徳川家と親戚とも言える間柄だったと言えます。
梅子の父・仙は津田家の次女・初子と結婚しましたが、初子には姉(竹子)がいて、田安家で奥女中として仕えていました。
そして奥仕えの中で、姉の竹子は田安家の当主に見初められて男の子を二人産みます。
それが後の徳川家達(いえさと)と達孝(さとたか)でした。
家達は慶喜が隠居したあと、徳川宗家を継ぐことになります。
梅子は、時代が時代なら、将軍ともなる人物といとこだったんですね!
幕府が消滅し、商売を始めた仙。野菜農家として成功する
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このように前途洋洋だった津田家ですが、大政奉還により幕府が消滅したことで、武士としての将来が閉ざされます。
そこで仙が始めたのが、商売人としての人生でした。
初め仙は辞書の翻訳で生計を立てようとしますが、上手くいきません。
そこで外国人向けに建設されたホテルで通訳として働くことになりました。
そうするうちに、ホテルでは西洋人の口に合う西洋野菜が不足していることに気付きます。
そこで西洋野菜の栽培を研究し始め、この農場経営を拡大することに成功しました。
農業経営の技術が買われて北海道開拓使に。梅子留学の糸口をつかむ?
農業の経験を買われて仙が次に出仕することになったのは、北海道開拓使でした。
当時の北海道は未開の地が大半であったため、政府はこの地を開拓して農地として活性しようと考えていました。
そのため、一から研究をして大規模な農場を経営するに至った仙の経験は、政府にとって最も参考にしたいものでした。
この時、北海道開拓使の実権を握っていたのは薩摩藩出身の黒田清隆。
黒田は後に、女子を欧米へ留学させ、女子教育に力を注ぐよう、政府へ強く訴えます。
その結果実現したのが、岩倉使節団への女子留学生の同行でした。
そして梅子は、最年少の6才でこの使節団に参加することになります。
父・仙と黒田清隆のつながりが無ければ、この機会を手に入れることが無かったかもしれません。
☆☆☆
父・仙の活躍で、海外に触れる機会を得ていく梅子ですが、留学先ではどのような困難があったのでしょうか?
次の記事で書いていきたいと思います!
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