本能寺の変で織田信長を討った明智光秀について、その生涯をわかりやすく要約しました。

明智光秀についてのプロフィール

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明智光秀(1528-1582)

出身国:美濃国(現在の岐阜県)

父:美濃国の豪族・明智光隆(あるいは光綱、光国)

光秀の遍歴。織田信長に仕えるまで

はじめ美濃の斎藤道三に仕えていましたが、斎藤氏が滅んだあと朝倉義景に仕えていました。

朝倉義景は朝廷と密接につながっており、室町幕府将軍の足利義昭を一時保護。

その義昭を織田信長に紹介するきっかけを作ったのが、明智光秀です。

その縁で足利義昭と織田信長の両方に仕えることになりました。

1571年、織田信長が行った比叡山延暦寺の焼き討ちで功績をあげ、近江坂本城の城主となります。

羽柴秀吉とならんで信長の信頼を得ることに成功しました。

謎の多い「本能寺の変」なぜ主君・信長を討ったのか

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ここまで信長の信頼を得ていた光秀ですが、謀反を起こし本能寺の変で信長を討ったことはあまりにも有名です。

なぜこのような反乱を起こしてしまったのでしょうか。

そこには、光秀の性格が大きく起因していると言われています。

光秀はもともと頭脳派で、いろいろと策を図ったり研究するタイプでした。

その性格が功を奏して、信長の気に入るように行動することが出来ていたのですが・・

それが徐々に裏目に出始めます。

いったん信長の反感を買ったと思ってしまうと、些細なことで神経をとがらすようになってしまうのです。

それが爆発したのは、徳川家康の接待を命じられたときのこと。

光秀の接待の仕方に腹を立てた信長は光秀を足蹴にしますが、足蹴にされた光秀は信長に対する不信感を募らせます。

本能寺の変は、このように光秀の頭の中で膨らんだ信長への不信感が原因と言われています。

・・

ところがこの説は、のちに豊臣秀吉が作った都合の良いストーリーだったとも言われています。

また本能寺の変は家康暗殺のために信長と光秀が共謀したものだった・・という説もあります。

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