戦国時代、武将たちは自らの運命を軍神たちにたくして、命をかけて戦いました。

中でも特別な神は「毘沙門天」「摩利支天」など。

この記事では、そんな戦国武将たちの軍神信仰について、簡単にまとめました!

軍神の数は・・9万8千!

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戦国時代、軍神の数は9万8千にものぼると考えられていました。

毛利元就の軍幡には

「頂礼正八幡大菩薩 南無九万八千軍神二千八百四天童市十 帰命摩利支尊天王」

とあります。

そんな数多くの軍神の中で、特別な存在として考えられていたのが上記の文中にも出てくる

「摩利支天」

と、上杉謙信の信仰で有名な

「毘沙門天」

でした。

上杉謙信が信仰した「毘沙門天」

謙信はその軍旗に「毘」の字を記していましたが、これは毘沙門天の頭の一字を取ったもの。

毘沙門天とは、仏教の四天王の一つで、別名を多聞天と言います。

もともとインドでは商売繁盛の神でしたが、強い力で鬼を率いることから中国に入って軍神として考えられるようになりました。

上杉謙信は旗に「毘」の字を掲げたとおり、毘沙門天を篤く信仰しており、居城に毘沙門天像をおいて出陣の前に必ず祈った他、戦場にまで像を運ばせました。

ライバルの信玄も毘沙門天を信仰していた

上杉謙信のライバルと言えば武田信玄。

信玄は軍旗の一つに諏訪明神の名を記していたので、謙信との対比で

謙信は毘沙門天

信玄は諏訪明神

と断定されがちです。

ところが信玄は諏訪明神だけでなく、毘沙門天の像をまつり祈るなど毘沙門天信仰も行っていたのだとか。

呪文と結びついた「摩利支天」信仰

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摩利支天は毘沙門天と同じインドから生まれた仏神ですが、強い力で危険から身を護ってくれるとされています。

摩利支天の信仰の仕方は、像をまつった毘沙門天信仰とは違い、文字や呪文を用います。

中世の武士の作法を記した書物には摩利支天信仰の仕方が以下のように説明されていたようです。

軍幡を立てるときに摩利支天の呪文を唱えよ

摩利支天と書いたものを一字ずつ切って、「摩」の字を布呂(ほろ・背にかけた布)に、「利」の字は鎧の左袖に、「支」の字は反対の袖に、「天」の字は馬につけよ

また摩利支天の梵字を兜の飾りにしている武将も多かったようです。

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