「天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)」とは、比叡山延暦寺の僧による法華宗寺院の焼き討ち事件です。
実はこの乱は応仁の乱よりも大きな被害を出したと言いますが、現代ではあまり知られていません。
その理由は何なのでしょうか?
「天文法華の乱」の概要を説明するとともに、考えてみたいと思います。
京の町を焼け野原にした「天文法華の乱」の概要
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織田信長による比叡山焼き討ちは有名ですが、その原因となった一大事件についてはあまり知られていません。
その一大事件こそが、「天文法華の乱」です。
この事件は、1536年に比叡山の僧兵が京にある法華宗(現在の日蓮宗)の寺院二十一本山に侵入し、焼き払ったというもの。
この焼き討ちにあった寺院全てが翌日までに全て焼き落ち、多くの信者だけでなく、巻き込まれた京の人々も犠牲になりました。
犠牲者の数は、文献によって三千人とも一万人とも言われています。
また焼けた町の面積は、下京がほぼ全域、上京が三分の一ほど。
応仁の乱で焼かれた面積よりも大きかったようです。
(「学校では教えてくれない戦国史の授業」(PHP文庫・井沢元彦)参照)
天文法華の乱の原因は?
ではこれほどまでに大きな事件は、なぜ起こったのでしょうか?
きっかけは「松本問答」という論争だったと言われています。
松本問答とは、比叡山の僧・華王と法華宗門徒の松本久吉が、互いの教義について行った論争のことです。
この問答の末、比叡山の華王が敗れ、それを比叡山の僧たちが逆恨みをしての報復事件が「天文法華の乱」でした。
織田信長の比叡山焼き討ちは、天文法華の乱を起こしたことへの戒めだった
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さて、上記のように身勝手な理由で、宗教勢力が武力を使うことが許されるべきものではありません。
そう考えたのが織田信長でした。
こうした比叡山の僧たちによる横暴を戒めるために信長が行ったのが、「比叡山延暦寺の焼き討ち」(1571)です。
この焼き討ちで、信長は三千から四千の僧兵や住民を殺戮したと言われています。
この事件は信長の残虐さを伝えるものとして後世にも語り継がれていく中、天文法華の乱はなぜか大衆から忘れられていきました。
なぜ「天文法華の乱」は忘れられていったのか
ではなぜ、応仁の乱以上の被害をもたらした大事件「天文法華の乱」が忘れられ、一方で「比叡山の焼き討ち」だけが独立して伝えられることになったのでしょうか?
先に参照した書籍「学校では教えてくれない戦国史の授業」(PHP文庫・井沢元彦)では、
「日本の歴史学者が宗教を知らないから」
と説明しています。
いわく、日本の現代の宗教団体は武力を持たないので、戦国時代以前の武力を持っていた宗教団体間の争いごとに鈍感だったのではないか?ということです。
それもあるのかもしれません。
でも私個人の感想としては、あまりに「残酷な信長の比叡山焼き討ち」のイメージだけが後世に伝えられていることから、何者かによる信長への悪意に基づく印象操作のように感じてしまいます。
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