近江の浅井長政と結んで織田信長と敵対した、越前の戦国大名 朝倉義景(あさくらよしかげ)

その朝倉義景の生涯を、分かりやすく要約します。

朝倉義景のプロフィール

Sponsored Link

朝倉義景(1533-1573)

出身国:越前国

父:朝倉孝景

室町幕府との密接なつながり

当初は延景と名乗っていたが、室町幕府13代将軍・足利義輝より「義」の一字を与えられて「義景」に改名しました。

当時としては異例なほど幕府と密接な関係にありましたが、それは父・孝景の尽力と、義景が幕府の要人の娘を正室に迎えたことに起因しています。

そのため、後に室町幕府最後の将軍となる足利義昭を、一時保護することにもなりました。

また京から戦乱を逃れてきた公家たちも守ったので、その文化が「朝倉文化」としてこの地に残りました。

一向一揆との長い戦い

朝倉義景が長く悩まされたのが一向一揆との戦いです。

弾圧に抵抗した加賀の本願寺門徒が中心となって起こした「加賀の一向一揆」ですが、最初に起こったのは1488年ごろ。

徐々に北陸全体に一揆は広がり、朝倉義景の治める越前でも対立が深まりました。

一揆が終わったのは始まってから実に100年後

朝倉家で保護した足利義昭も、一揆の和睦を取り持つための尽力したといいます。

織田信長との対立。そして朝倉義景の最期

Sponsored Link

かくまっていた足利義昭が、上洛(京都へのぼること)することについて朝倉義景と意見対立すると、足利義昭は朝倉家を出て織田信長のもとへ身を寄せます。

そして織田信長が、足利義昭を伴って上洛に成功しました。

信長は各地の大名へ上洛の指示を出しますが、義景は応じません。

そこで信長は「義景に叛意あり」として、義景の住む越前を攻撃しました。

その時は、織田と同盟を結んだはずの浅井長政が寝返って朝倉についたため、義景は窮地を脱します。

その後何度かの戦いを経るもなんとか朝倉家は持ちこたえますが、義景ののらりくらりとした態度に家臣の団結は弱まっていきました。

甲斐の武田信玄が死ぬと織田は軍を挙げて朝倉を攻め始めます。

ついに朝倉は挙兵して織田との戦いを試みたものの、家臣の多くは義景を見捨てており出陣を拒否するものが多かったとか。

なんとか集めた2万の兵も織田信長に猛撃され壊滅的な被害を受けました。(刀根坂の戦い)

一乗谷を捨てて逃げ落ちるものの最後は取り囲まれ、41才で自害しました。

Sponsored Link