戦国時代の史料をみると、黒人の絵が描かれていて、びっくりされたことはないでしょうか?
世界は大航海時代。
日本に訪れるヨーロッパ人が、奴隷として伴ってきていたのだとか。
実はその中から侍になった人物までいるんですよ!
この記事では、信長に仕えた黒人「弥助」と(こちらは奴隷出身ではありませんが)家康に仕えた「三浦按針」など「海外から日本へきて、侍になってしまった外国人」についてお伝えします。
奴隷から侍へ。本能寺の変でも信長に付き添った「弥助」という黒人侍
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日本の戦国時代は、ヨーロッパでは船で未開の地へと乗り出した時代でした。
鉄砲(1543年伝来)やキリスト教(1549年伝来)も、その波に乗って日本へ伝来しています。
そしてキリスト教を伝える宣教師たちが伴って、日本にやってきたのは奴隷たちでした。
彼らは宣教師たちがヨーロッパから日本へ来る途中、アフリカやインドから奴隷として連れられてきました。
後に信長に取り立てられ侍になった「弥助」もその一人。
イタリア人宣教師のヴァリニャーノが連れてきた奴隷でした。
当然ながら、その肌の色や体の大きさは、日本人がこれまで目にしたことが無いようなもの。
民衆はもちろん驚きましたが、あの織田信長ですら例外ではありませんでした。
信長が気に入り、ヴァリニャーノに話をつけて引き取ったといいます。
それだけでなく家や刀も与え、正式な武士として弥助を取り立てました。
一説によると、後には城をも持たせるつもりだったといいます。
しかし信長は本能寺の変で死去。
弥助もその時本能寺にいて戦かったものの、その後の二条城での戦いで明智光秀によって捕らえられました。
弥助はその後南蛮寺(京都に建てられていた教会)に送られ、その後の消息は不明だそうです。
漂着し家康によって旗本に取り立てられた三浦按針(ウィリアム・アダムス)
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三浦按針(みうらあんじん)はイングランド出身で、元の名前をウィリアム・アダムスといいました。
極東を目指す航海の水先案内人として、オランダ船リーフデ号に乗り組みます。
初めは5隻からなる110名の船団で出発しますが、途中4隻をなくし、日本に漂着したときは乗組員は24人に減っていたといいます。
運よく生き残ったアダムスですが・・
日本では先に根付いていたカトリック系の宣教師たち(スペイン人、ポルトガル人)が、反目するプロテスタント系の国民であるアダムスたちを殺そうと画策します。
それを救ったのが徳川家康でした。
家康はアダムスを引き留め、米や俸給を与えて、外交や造船などに携わらせます。
その成果でアダムスは旗本に取り立てられ、三浦按針という名前を得ました。
三浦は与えられた領地の名前から、按針は「水先案内人」の意味からきています。
日本人の妻と二人の子供をもうけましたが、家康が亡くなると状況が変わります。
鎖国体制が敷かれ貿易が長崎の平戸に制限されたため、平戸に引き込んだままその生涯を終えました。
按針の二人の子がどうなったかは、明らかになっていません。
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