17世紀前半といえば日本の江戸時代初期。
そんな時代に、すでに海外で活躍していた日本人がいます。
その人物が「山田長政」です。
山田長政は、当時のタイを治めていたアユタヤ王朝のもとで活躍し、日本人ながら王朝の政治に影響を与える程でした。
その活躍と、子孫の存在について調べてみました!
アユタヤ日本人町の繁栄
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現在のタイを17世紀の当時治めていたのがアユタヤ王朝です。
アユタヤ王朝は地の利を活かした貿易で繁栄しており、その中心部アユタヤには、西洋諸国をはじめ中国・日本も貿易の拠点を置いていました。
日本の拠点はアユタヤ日本人町と呼ばれ、15世紀から栄えており、最盛期には1000~1500人もの日本人が住んでいたといいます。
特に日本人居住者が増えたのは関ヶ原の合戦のあと。
浪人たちが流れ着き、日本人町は貿易の拠点以外の機能を高めていきます。
それが、アユタヤ王朝の傭兵集団としての機能です。
戦闘能力の高い日本人集団は傭兵として重用され、アユタヤ王朝で重要な役割を担うようになります。
そのリーダーとして働いたのが山田長政です。
王女との結婚・政治権力を手にする
長政は1612年に、朱印船に乗って台湾経由でアユタヤに移り住みました。
日本にいた頃のことは、駿河国(いまの静岡県)出身であることと駕籠かき(駕籠を担いで運ぶ人)をしていたこと位しかわかっていません。
しかし長政は日本人町の武力を活かし、二度に渡るスペイン艦隊の侵攻を防ぎます。
そしてその結果、当時のソンナム王政権のアユタヤ王朝から信を得ることに成功したのです。
長政はアユタヤ王朝の王女と結婚し高い官位を得ます。
後継者争いに巻き込まれ暗殺
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しかし山田長政の活躍にも陰りが見え始めます。
アユタヤ王朝24代ソンナム王が亡くなると、後継者争いが勃発しますが、長政もそれに巻き込まれたのです。
長政はソンナム王の遺言通りチェーター王を即位させますが、チェーター王は先々王の隠し子であるシーウォーラォンによって殺されます。
シーウォーラォンの即位に反対する長政は、宮廷内で反感を買い左遷させられてしまったのでした。
その後長政は左遷させられたリゴールの地でマレー王朝の侵略に対し戦いますが、負傷した足の治療薬に毒を混入させられ殺されます。
1630年のことでした。
この暗殺もまた、シーウォーラウォンの手によるものだと言われています。
再評価された長政の功績
異国人ながら王朝で重要な役割についた山田長政。
しかしながら長政の死後、日本人町は焼き討ちにあい没落していきます。
母国日本においても、長政の活躍を語るものは長い間現れませんでした。
しかし江戸時代や鎖国が終わり日本の目が海外へ向き始めると、山田長政は改めて脚光を浴びることになります。
大正4年には従四位が与えられ華族に準ずる位に。
第二次世界大戦下では、日本軍の南進政策の宣伝にも使われるようになりました。
タイにいまだ残る影響力・・子孫を名乗る人物も
アユタヤでは山田長政の名はいまだに語り継がれており、日本人町を探す際には「ヤマダ」と言えば通じるのだとか。
そんなアユタヤで「山田長政の子孫だ」と名乗る人物も見受けられるそうです。
しかし長政の実子は殺されており、日本人町も消滅。
長政の子孫がいることは伝えられていません。
山田長政の子孫を名乗るのは日本人観光客の気をひくためだと思われますが、それほどまでに現在でも影響力を持った人物なのです。
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