徳川綱吉ほど誤解されて後世に伝わった偉人はいません。
母の言いなり
犬公方
暴君
というのが良く知られている綱吉への評価ですが、本当は名君だったという説もあるのです。
ではなぜ、綱吉は暴君に仕立て上げられてしまったのでしょうか?
母との関係や、綱吉の本当の功績をお伝えします。
「生類憐みの令」に込められた本当のねらい
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5代目将軍・徳川綱吉は3代目将軍・徳川家光の子です。
母は桂昌院と呼ばれた人物でした。
有名な「生類憐みの令」は、綱吉が母の言いなりになって作ったもの・・と言われています。
「むやみに犬をかわいがる法令」と思われていて、この起草は子に恵まれない綱吉を心配した母・桂昌院の勧めによるもの・・
というのが一般的な見解です。
ところが生類憐みの令は、本来「家人や目下のもの、生物を大切にするように」という人々への戒めのために作られたようです。
当時はまだ、武士や力のあるものが武力で人を従えることがまかり通っていた時代。
「武士は無礼を働いたものを殺しても良い」という「斬り捨て御免」という風潮もありました。
また武士に限らず、子捨てや姥捨て、動物の遺棄が当然ように行われていたようです。
綱吉はこうした横暴を許さず、「上の立場にあるものでも目下のものの命を大切にしなければいけない」と考えたのです。
そこで作られたのが、「生類憐みの令」でした。
しかしその法令はなかなか浸透せず(今までの価値観に合わないので反発が大きかった)、次第に取り締まりが厳しくなっていったのではないかと、近年では考えられています。
その他の功績「朱子学の官学化」
朱子学とは儒学の一派で、
「目上の者を敬うこと、自らを律すること」
を中心に説いている学問です。
この朱子学を父である家光から幼いころから教え込まれた綱吉は、幕府の官学(正式な学問)とすることにしました。
秩序や自律を重んじる朱子学は、平和で秩序ある日本を作る上で大きく貢献していきます。
この朱子学をもとに改定を重ねられたのが「武家諸法度」。
武士のあるべき姿「武士道」としてまとめられたものが「葉隠」でした。
綱吉が暴君に仕立て上げられた3つの理由
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このように「平和や秩序」を大切にした綱吉。
それなのに悪評ばかりが伝えられているのはなぜなのでしょうか?
そこには2つの理由が考えられます。
1. 武士や町民たちの反感を買う政策だった
「平和な世づくり」を意図した生類憐みの令も、武士にとっては「武士の権力のはく奪」。
また町民たちも、今まで当然のように行ってきたことなので、従う理由が分からないかもしれません。
そんな民衆に対して、どんどん法令を厳しくしていった綱吉。
民衆にとっては「最悪な将軍」と思われても仕方がないかもしれません。
2. 相次いだ天変地異を綱吉のせいにされてしまった
綱吉の治世は、不運なことに天変地異が相次ぎました。
飢饉に始まり大火災や大地震、富士山や浅間山の噴火まで。
当時はこうした天変地異が起こると「主君の徳が無いことへの天罰だ」と考えられていたので、綱吉は民衆から支持されなかったのでしょう。
まとめ
悪評が多いのは、真っすぐすぎる性格と不運が重なったようです。
でも、それにしても不当な語られ方には気の毒になってしまいます。
これからの世は、公正に綱吉の功績が伝えられていくといいですよね。
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