豊臣秀吉の子・豊臣秀頼は、秀吉が57才の時の子供です。
太閤の子として生まれながら若くして自害・・
そんな豊臣秀頼にまつわる、3つの悲しいエピソードをお伝えします。
悲劇1.豊臣秀頼は秀吉の子ではなかった?淀殿にかけられた疑惑
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秀吉には側室が多くいますが、実子は4人と言われています。
その1人が側室の淀殿から生まれた秀頼です。
しかし「秀頼が秀吉の子ではなかったのではないか」とされる説が多く残されています。
その根拠としては、
1.秀頼の風貌が秀吉と全く似ていない(秀頼は身長2メートル近くあったといわれている)
2.淀殿以外の側室から子供が生まれていない(長子は非実在説がある)
3.複数の文献に「秀頼は秀吉公の実子ではない」という記述が残されている。秀吉の家臣の「大野治長」が実の父として疑われている。
などが挙げられます。
でも秀吉は自分の子と信じて疑いませんでした。
実子かどうかわからないけれど高齢になってから生まれてしまった可愛い息子・・
この秀吉の我が子への愛が、次なる悲劇を生んでしまいます。
悲劇2.秀吉モンスターペアレントになる・・秀頼に跡を継がせるためなら養子も殺す
「もう子供は出来ない」
とあきらめていた秀吉は、多くの養子をとっていました。
秀頼が生まれたとき、すでに秀吉はその養子の一人・秀次に関白の役職を譲り、後継者にしていたのです。
それが許せなかった秀吉は、秀次から関白の職を奪い、自刃させます。
それだけでなく、秀次の子や妻たちも皆殺しにしました。
わが子可愛さに、暴挙に出てしまったのですね。
その他にも、死が近づいた秀吉は誰彼構わず秀頼のことをお願いするなど、見境を失くしてしまいます。
今で言う「モンスターペアレント」と言えるかもしれません。
農民から太閤にまでなった秀吉を晩年になってそんな人物にしてしまったことが、秀頼にまつわる一番の悲劇と言えるかもしれません。
悲劇3.秀頼を守るために、7歳で徳川家から豊臣家へ嫁がされた千姫
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先にも書いた通り、秀吉はわが子の秀頼を守るためになりふり構わず画策しました。
その一つが、徳川家康の孫娘・千姫(徳川秀忠の子)と秀頼を結婚させることです。
秀吉はまだ千姫が生まれる前から秀頼との結婚を約束させ、秀頼の安泰を図ろうとしました。
秀吉の死後力をどんどん大きくした徳川家に脅え、秀頼の母の淀殿は千姫を予定よりも早く秀頼のもとへ嫁がせます。
その時千姫はまだ7才でした。
嫁いだあとの秀頼と千姫との仲は良かったものの、豊臣家と徳川家の仲はこじれていきます。
大坂夏の陣では千姫は秀頼と淀殿の助命嘆願の役割を負い徳川の本陣へ向かいますが、助命はかないませんでした。
秀頼と淀殿は自害しますが千姫は生きながらえ、秀頼の娘(側室の子で千姫の子ではない)を養子にしてその命を救いました。
☆☆☆
生まれた秀頼に罪は無いと言え、もし淀殿の不倫の子だったら・・
その起こした罪の大きさは、恐ろしいものがあります。
秀頼の父という疑惑のある大野治長は、大阪夏の陣で秀頼親子とともに自害しています。
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