「以心崇伝(いしんすうでん)」あるいは「金地院崇伝(こんちいんすうでん)」は、世の中で悪役として捉えられているようです。
でも私は、その功績は偉大なもので、「悪役」のイメージは意図的に作られたものだったと考えます。
この記事では、以心崇伝の功績とともに、「功績がありながらなぜ悪役として描かれてしまうのか」を分析します!
以心崇伝の功績
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以心崇伝のプロフィール
室町幕府足利将軍家の名門・一色家の子として生まれるが、足利氏の滅亡とともに出家する。
1606年、徳川家康の招きで江戸幕府の政治顧問となり、幕府の外交や寺社行政にたずさわった。
「金地院」の住職となったことから「金地院崇伝」とも呼ばれる。
江戸幕府の秩序をつくる
戦乱の世が終わり、徳川将軍家が目指したのは「守成の世」作りでした。
これまでのように下剋上が起こっては戦国時代に戻ってしまうので、誰もが安心して平和に暮らせる体制作りを最優先しました。
そのために江戸幕府がまず力を入れたのが、「秩序を整えること」。
世の平和を乱すのは、権力を我が物にしたい「武家、公家、朝廷、寺社」です。
それらを幕府が統制するために、以心崇伝が中心となり「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」「寺院諸法度」が制定されました。
こうした法による統制を「締め付けだ」と非難する方もいます。
でもこの法がなかったら世の中はどうなっていたのでしょうか?
間違いなく、秘密裏に力をつけて天下をひっくり返そうとする人物が現れ、時代はまた戦乱の時代に逆戻りです。
この後日本に長い平和な時代が続いたのは、これらの法令の力が大きかったのです。
悪評は嫉妬が原因
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数々の法令制定の中心人物となった以心崇伝は、その権力の大きさを恐れられるようになります。
そして、「権力を持とうとするのは、私腹を肥やすためだ」と揶揄されるようになりました。
でも崇伝が尽力したのは「自分が権力をつけるため」ではなかったと、崇伝の遺言から読み取ることができます。
「すべては江戸の事を第一に考え平和を長続きさせ、南禅寺のことは二の次におくように」
というのは、崇伝が弟子たちに言い残した遺言です。
それではなぜ、以心崇伝は悪役になってしまったのでしょうか。
上記のような遺言も、後世では全くと言っていいほど触れられていません。
それはおそらく、有能すぎる崇伝の影響力を恐れた幕臣たちが、その力を削ぐために画策したのでしょう。
大坂の陣のきっかけになった「方広寺鐘名事件」も、「難癖をつけて戦のきっかけを作ったのは崇伝だ」という説が通説ですが・・
近年では否定する見方も出されています。
正当な評価を受ける日は近いのではないでしょうか!?
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