「長州征伐」とは、幕末に行われた江戸幕府による2度の長州藩領への出兵を指します。
当時の天皇だった、孝明天皇の命令によって行われました。
幕府が特定の藩へ向けて出兵するのは、江戸時代でも異例のこと。
なぜこのような事態が起こったのでしょうか?
直接的には「禁門の変」を起こしたことが発端となりますが、そこに至るまでの過程を解説します。
高まる長州の反幕感情
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開国にまつわる「幕府の弱腰」に反発する攘夷派
ペリーが来航して以降、江戸幕府は対外政策で揺れていました。
はじめは「鎖国」を貫き、穏便に諸外国の開国要求を拒否してきたものの・・
黒船が見せつけた外国との武力差に、「開国」へと方向を変えていきます。
そして一旦開国をすると、次には「関税自主権の放棄」や「治外法権」を認めた日米修好通商条約の締結など、外国の言いなりになっているかのような印象も与えるほどでした。
一方で、幕府以外の諸藩や朝廷では「攘夷派」が主張を強め始めます。
「外国の要求など呑まず、夷敵を討つ!」というのが攘夷派の主張。
その先頭に立っていたのが「長州藩」です。
長州藩はそのころ朝廷の攘夷派公卿と結び、朝廷で大きな力を持っていました。
彼ら攘夷派にとっては、「日米修好通商条約」や「安政の大獄」は幕府の横暴にしか感じられません。
日本各地に増え始めた攘夷の志士たちと共に、反幕府の動きを強めていきました。
攘夷派を抱え込むはずの幕府の政策「公武合体」が裏目に
統率力が弱まったことを自覚した幕府は、皇女和宮の降嫁をもって「公武合体」を図ろうとします。
朝廷と融和することにより、攘夷派を抱え込もうとしたのです。
ところが幕府は「攘夷の口約束」だけして皇女との結婚の約束を取り付け、実際には攘夷を実行することはありませんでした。
怒った長州藩は、行動を起こさない幕府をしり目に独断で外国船を攻撃するという行動に。
しかしその反撃に長州は外国連合軍から手痛い仕返しを受けてしまいます。
その恨みは、長州藩の幕府への反発感情をますます高めていきました。
京都守護職の任命と長州の孤立
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そんな中、京都守護職に松平容保が任命されます。
攘夷の志士によるテロ行為から、京都の町を守るためです。
「攘夷」の志が分からないでもない容保は、初め武力ではなく対話によって攘夷派をなだめようとしていました。
ところがある日、三条河原に「ある木像の首」がさらされたことにより、その態度を変えます。
その木像の首とは、「室町幕府足利将軍3代」のもの。
「足利尊氏はじめ室町幕府の3代将軍は、朝廷をないがしろにした悪人だ。」
「徳川は足利以上の悪人だ」
という攘夷派の主張に、容保は激怒し・・
攘夷派を徹底的に弾圧する方向へ動いていきます。
その手始めに行われたものが「八・一八政変」と呼ばれるものです。
攘夷派の公卿や長州派閥を朝廷から一気に追い出したもので、その日付をもってこう呼んでいます。
長州は京都から追われ、完全に孤立させられてしまいました。
「池田屋事件」の無念が長州に火を点ける
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八・一八政変後、なりを潜めていた長州藩による攘夷の動き。
しかし多数の攘夷派長州藩士が命を落とした「池田屋事件」をきっかけに、再び攘夷の火を燃やすことになります。
池田屋事件とは、京都の池田屋で幕府転覆計画を話し合っていた志士たちが、新撰組に踏み込まれ命を落とした事件です。
この事件をきっかけに、長州藩の攘夷の意思に再び火が点きます。
池田屋事件の被害者が話し合っていた
京都守護職 松平容保の暗殺
孝明天皇を長州に連れ去る
というテロ計画を、藩を挙げて実行することになりました。
それが「禁門の変(蛤御門の変)」です。
ところが長州藩勢力は京都御所を目指して戦闘を繰り広げたものの、会津藩・桑名藩勢によって掃討されます。
そして長州藩は御所に向かって銃口を向けた罪で、「朝敵」になってしまったのでした。
「朝敵」となった長州藩へ、孝明天皇は「征伐」の命令を出します。
第一次長州征伐はこのようにして実施されることとなりました。
二回の征討の間で変わった時代の流れ
このような流れで長州藩へ出兵がされたものの、長州藩の恭順な姿勢により幕府が軍を撤廃。
ひとまず収束をみせます。
ところが、長州藩主が約束どおり江戸に蟄居しなかったのを理由に第二次長州征伐の出陣となります。
この時、将軍家茂が大坂城へ入城するなど、前代未聞の大事件となりました。
本来なら幕府軍と長州軍の武力差は圧倒的。
長州藩は大敗に喫するところですが・・
第二次長州征討の前に、ある秘密同盟が結ばれたことで長州藩が負けるどころか幕府側が醜態をさらすことになります。
その秘密同盟が「薩長同盟」です。
はじめ幕府側にいた薩摩藩が、幕府の弱体化に危機感を覚え、対立していたはずの長州藩と手を結んだのです。
これにより薩摩藩は長州征討に出兵せず、幕府軍は将軍家茂の死をきっかけに解体。
時代は倒幕へと流れ始めます。