江戸時代に公式の学問として認められた学問(官学)は「朱子学」という学問でした。

朱子学は「儒学」と言われる中国発祥の学問の流派の一つ

ではなぜ数ある流派の中から、朱子学が官学になったのでしょうか?

そこには、幕府の深い意図があったのです。

儒学とは?どんな学派があるのか。

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孔子が作り上げた宗教・信仰である「儒教」。

この儒教を「どう学ぶか」という学問的な側面を指したものを「儒学」といいます。

儒教が創始されたのは紀元前6世紀のこと。

その信仰のベースは祖先崇拝ですが、「儒学」の在り方は中国の王朝が変わるたびに変化していきます。

例えば後漢時代には、古典の正しい解釈を目指すことが(訓詁学)が儒学の主流に。

江戸幕府の官学となった「朱子学」は宋から南宋の時代に発展。

明の時代には朱子学に対立する陽明学が興りました。

日本にもこれらの学派は持ち込まれ、さらに下部の学派に枝分かれして発展。

その間に宗教的な側面が切り離され、学問の要素が強く捉えられるようになりました。

朱子学の特徴と、他の学派との違いは?

朱子学がそれまでの儒学と異なるのは、儒学を哲学や実践倫理に高めた点です。

それまでは「古い時代に書かれたものをどう解釈するか」が儒学の中心となっていました。

しかし朱子学では「儒教の教えをどう実践するか」を学問の中心に置いたのです。

朱子学では、物事をその原理原則である「理」と、その状態から変化させるもの「気」に分けて説明しました。

「理」に適った姿が「その物事のあるべき姿」なのですが、物事はその時々の「気」によって変化させられます。

だから常にあるべき姿で在るためには、「理」を理解し「気」を制御しなければいけない。

その方法を教えるのが朱子学です。

現代風に言いかえれば「気」は「心」になりますから、「心」をいかに律して理想的な状態に保つかを説明したのが朱子学なのです。

江戸幕府は「下剋上」を終わらせるために朱子学を官学にした

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朱子学が唱えた「理」の中には「君臣の明確な分離」というものがあります。

これは「生まれながらの身分、上下関係は揺るがせられない」という意味なのですが・・

これこそが、江戸幕府が最も日本人に浸透させたい価値観でした。

というのも、それまでの世の中は戦国時代。

下剋上が当たり前の風潮が、まだ残っていました。

その風潮をそのままにしておくことは江戸幕府の危機につながってしまいます。

そこでとった手段が、武力統制ではなく「朱子学による思想統制」だったのです。

その思惑はうまくいき、江戸幕府が朱子学を官学にすることによって

「武家諸法度」

「葉隠」

など武士としての行動規範や武士道が確立されていきます。

そして武士道を重んじる侍が育つことで、反乱の芽が育たないようにすることが出来たのです。

江戸時代における朱子学の第一人者「林羅山」

さて、その第一人者として活躍した人物も一緒に紹介しておきましょう。

林羅山(はやしらざん)という人物です。

この人物は、徳川家康をはじめとし将軍四代に渡って朱子学を教えました。

林羅山は幼いころから学問に優れ、藤原惺窩(ふじわらのせいか)のもとで朱子学を学びます。

1630年には上野忍ケ丘に家塾をたてましたが、後に江戸幕府の直轄の教育機関である昌平坂学問所と呼ばれるようになります。

またその一部の学習機関が発展し、東京大学の前身にもなりました。

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