「篤姫」(のちに出家して天璋院(てんしょういん))は、幕末期に徳川将軍家に正室として嫁ぎ、大奥の中から時代の変化に揺れる徳川家を支えた人物です。

篤姫がいなかったら、徳川家は今に至るまで存続していなかったかも知れません。

でも彼女、実は将軍の正室としては異例の外様大名家出身。

それも生まれは藩主の家柄ではなく、名門とはいえ家臣の家柄です。

将軍の正室は摂家や宮家から迎えるのが当然だったのに、篤姫はなぜ将軍の正室となることが出来たのでしょうか?

その経緯をみてみると、まるで長い時間かけて神様が段取りしたような・・。

そんな、運命のようなご縁だったようです。

250年前からつづいた縁が引き寄せた、篤姫のシンデレラストーリー

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篤姫は13代将軍徳川家定に嫁ぎ正室となりますが、実は彼女の前にも二人の女性が家定に正室として嫁いでいました。

どちらも慣例通り、摂家や宮家から嫁いだ姫たちです。

ところがこの二人とも、嫁いでわずかの間に次々と亡くなってしまいます。

そこで花嫁を探す先として白羽の矢がたったのは、薩摩藩の島津家です。

でも外様大名である島津家から、なぜわざわぜ花嫁を迎えようとしたのでしょうか?

実は、当時からさかのぼること250年ほども昔の、5代将軍徳川綱吉からの縁が働いたからです。

はじまりは綱吉養女「竹姫」

将軍家と島津家は、5代将軍綱吉のころまでさかのぼることが出来ます。

綱吉の養女の竹姫が、島津家へ嫁いだことが始まりでした。

その縁は竹姫の孫・重豪(しげひで)が薩摩藩主となったことで、より固いものになります。

重豪の正室にと、御三卿の一橋徳川家から保姫が嫁いできました。

さらに竹姫は、島津家と徳川家の縁が切れないよう、重豪の娘「茂姫」を徳川家へ嫁がせるように遺言を遺します。

偶然将軍の正室になった「茂姫」が篤姫の輿入れを実現

茂姫は竹姫の遺言通り徳川家へ嫁ぐ縁組をしました。

相手は御三卿の一橋豊千代です。

初めは一大名同士の結婚・・といった具合でした。

ところが、10代将軍家治の嫡子が亡くなると、事態は一変します。

一橋豊千代が、次期将軍候補となってしまったのです。

そのため茂姫は、初めて外様大名出身で将軍の正室となります。

将軍となった家斉は、歴代将軍の中で最も在位が長く、50年間将軍職に就いていました。

また家斉には子供も多く、これらの事実が茂姫の大奥での地位を確固たるものにしました。

13代将軍家定は2人の正室を亡くしたあと、この茂姫の縁で自ら島津家との婚姻を望んだのです。

藩主に見込まれて輿入れした篤姫。シンデレラになって、幸福だったのか?

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こうして実現した、薩摩藩からの将軍家の輿入れ。

薩摩藩内には篤姫の他に花嫁候補が何人かいたようですが、藩主の島津斉彬の目に留まったのが篤姫でした。

斉彬は、篤姫のことをこう評価しています。

「忍耐力ありて、幼年よりいまだ怒の色を見たる事もなく、不平の様子もなし。腹中は大きなるものと見ゆ。軽々しいことなく温和に見へて、人に応接するもまことに上手也。将軍家の御台所には適当なり」

つまり、器が広くどっしり構えていて、人あたりも良かった、ということですね。

篤姫はこのように人物を見込まれ、将軍の正室となるべく、藩主島津家へ養子に入ります。

こうして実現した篤姫のシンデレラストーリー。

篤姫は幸せな結婚生活を送ることが、出来たのでしょうか?

将軍の正室としては、幸せいっぱいだったとは言えないかもしれません。

というのは、嫁いだ家定は幕政内で有力者にないがしろにされ、押さえつけられていたから。

そんな家定を、篤姫は憐れに思っても慰め方が分からなかった・・

と、篤姫自身が後に回想しています。

そのうえ家定は、篤姫と結婚してわずか1年9ヵ月後に亡くなってしまったのでした。

その後の篤姫は、家定の跡をついで将軍になった家茂の正室・和宮(かずのみや)と協力しながら、徳川将軍家を支えていきます。

徳川家が戊辰戦争で窮地にたたされたとき、慶喜の助命と徳川家の存続に尽力したのも彼女たちでした。

維新後は、遺された徳川家の当主「徳川家達(いえさと)」や大奥関係者の救済に努めたりと、自分よりも周囲に尽くしました。

まとめ

篤姫は、妻としての幸せには恵まれませんでしたが、徳川家の強い母として大きな貢献をされました。

篤姫の輿入れが神様の思し召しなら、神様は徳川家に救世主をもたらしてくれたのかもしれません。

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