「松尾芭蕉」と言えば、17世紀に活躍した俳人です。
日本では知らない人がいない程の有名人ですが・・
そもそも、なぜそんなにも有名なのでしょうか?
ここでは松尾芭蕉の功績とともに、忍者説の謎や辞世の句まで解説したいと思います!
松尾芭蕉の俳句界における功績
1. 独特の「蕉風俳諧」を確立した
今でこそ俳句は「心のわび・さびを表したもの」「風流」というイメージがありますが・・
実はそのイメージを作り上げた人こそが松尾芭蕉。
芭蕉が活躍する前の俳句は、滑稽さや奇抜さを追い求めるものだったようです。
(今で言う川柳のようなものでしょうか)
しかし芭蕉は、「俳句を人の心にふれるものにしたい」と、
さび(しずけさ)
しおり(しみじみとしたさま)
細み(こまやかさ)
を大切にしました。
これらの要素を取り入れた俳句を「蕉風(正風)俳諧」と言います。
先にも書いた通りこの蕉風俳諧は現代に引き継がれています。
その第一人者である松尾芭蕉の名が語り継がれるのは、当然なのです。
2. 大紀行文「奥の細道」をはじめ、たくさんの紀行文を残した
松尾芭蕉が著した「奥の細道」。
松尾芭蕉と言えばこの作品名が出てくるほど、よく知られた作品です。
「奥の細道」とは、江戸から東北をめぐり日本海側を南下して大垣(岐阜県)までを旅した際の紀行文。
その移動距離は2,400kmにも及びました。
松島や平泉など数々の名所を俳句にして表した芭蕉の紀行文は、他国の様子を知ることの出来ない当時の庶民にとって貴重な情報源。
松尾芭蕉は「奥の細道」以外にも「野ざらし紀行」「笈の小文」などの紀行文を残しています。
たくさんの紀行文が生んだ謎「忍者説」
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上記に記したように生涯に何度も旅をして紀行文を記していた松尾芭蕉。
この旅の頻繁さが原因で、ある俗説が噂されるようになります。
それは「松尾芭蕉は忍者だったのではないか」というもの。
松尾芭蕉はもともと伊賀上野(今の三重県)の出身です。
伊賀上野と言えば伊賀忍者の発祥の地。
忍者の主な任務は諜報活動で、そのために諸国を旅することが多かったと言います。
そんなことから俳人の松尾芭蕉は旅を怪しまれないための仮の姿で、本当は忍者だった?という俗説があるのです。
「奥の細道」の旅は2,400kmにも及びますが各地を停留しながらたったの150日で旅を終えたというのも、忍者説に信ぴょう性を増しています。
(150日で2,400kmの旅を終えるためには、休みなしで毎日15km歩かなければいけない)
江戸から東北を巡る旅は、仙台の伊達家を監視するためだったとか・・
本当かどうかはわかりませんが、これも松尾芭蕉の人気を高めている要因の一つかもしれません。
旅の途中で倒れ51才の生涯を終える。辞世の句は・・
忍者説も出るほどその生涯を旅に費やした松尾芭蕉。
人生の最期も、旅の途中に訪れます。
滞在中の大坂で、体調を崩して亡くなりました。
辞世の句は亡くなる直前に詠んだ以下の俳句です。
「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」
亡くなるまで、病床でこの俳句を推敲したという松尾芭蕉。
その姿とこの辞世の句の内容からは、忍者だったかどうかは別として
「本当に、旅と俳句が好きだったんだな」
と感じさせます。
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