由比正雪は、江戸時代前期に起こった浪人による反乱「慶安の変」の首謀者です。

結局反乱は由比正雪が死んだことで失敗に終わりますが、その影響は大変大きなものでした。

ここでは由比正雪のカリスマ性と時代に与えた影響についてお伝えします。

由比正雪のカリスマ性

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プロフィール

由比正雪は駿河国(今の静岡県)で1605年に生まれたと言われています。

生家は商業を営んでいたとか。

17才で江戸に出て楠正成の子孫に弟子入りし、軍学を学びます。

やがて軍学塾を開き、その門下生は3000人とも4000人とも言われています。

「武田信玄の生まれ変わり」という伝説

3000人以上もの門下生を持った由比正雪は、その出生にカリスマ的な伝説がありました。

それは、由比正雪の母が正雪を身ごもる前のこと。

武田信玄の生まれ変わりがお腹に宿るという不思議な夢をみたのです。

このエピソードは正雪のカリスマ性を高めるために後からつけられたものかもしれません。

しかし、そう語られても納得いくような、説得力の持ち主であったといいます。

そのカリスマ性は3000人以上という門下生の数からみても、推測できます。

慶安の乱の経緯とその後の影響

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幕府転覆を計画した「慶安の乱」

さて、由比正雪が活躍した1600年前半。

江戸幕府は武力をもって武士や浪人を厳しく取り締まっていました。

(これを武断政治といいます。)

その象徴としてあげられるのが「3代将軍・徳川家光」です。

家光は参勤交代を諸大名に義務付けたり外交を幕府で独占する鎖国を実施したりと、締め付けを強化しました。

ところが家光が亡くなると、跡を継いだのはまだ幼年の「徳川家綱」です。

家光の武断政治に浪人たちの不満が高まっていたことを知っていた由比正雪は、これを幕府転覆のチャンスととらえます。

江戸・駿府、大坂の3カ所での同時クーデターを計画したのですが、決起の直前に計画がもれ、由比正雪は駿府で自害しました。

乱の失敗がもたらしたこと

しかし反乱はこのように失敗したものの、武家や浪人たちの不安を知った幕府は政治の在り方を大きく変えることになります。

武家を取り締まる一方だった法令を弱め、浪人を減らすための改善を行いました。

(大名の改易を減らすための「末期養子の禁の緩和」、殉死の禁止、大名からの人質の廃止など)

つまり、由比正雪は死に革命は起こらなかったものの、その行動で多くの人が生きやすい政治づくりに貢献したことに。

歴史に大きな影響を与えた人物と言えるでしょう。

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