松平定信は8代将軍徳川吉宗の孫で、11代将軍家斉のもとで政治の中心を担い「寛政の改革」を行った人物です。

幕府の権力の復興、財政改善を目指してさまざまな手を打ちますが、後世の評価は厳しいものばかりになっています。

中でも特に「寛政異学の禁」という政策は、定信も意図せずして「倒幕」の流れを後押しすることにつながりました。

ここでは、自ら幕府の寿命を縮めることになった「寛政異学の禁」について考えてみたいと思います!

江戸三大改革の一つ「寛政の改革」の特徴

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松平定信の寛政の改革のポイントは、一言で言うと財政・思想ともに「取り締まり」です。

定信が政治の実権を握ったのは「賄賂政治」と言われた田沼意次が失脚した後でした。

定信は賄賂を横行させた田沼意次に強い反感を持っていたと言います。

(実際には、田沼意次は汚職政治家でもなんでもなく、「米=カネ」の経済から貨幣経済への転換を目指したに過ぎません。

ですが当時の常識より進歩的すぎて上手くいかないばかりか、「強欲」だとか「汚れた」というイメージを付けられてしまったのです。)

そして祖父の吉宗に強い憧れを持っていました。

定信の頭には「吉宗の時代の強い江戸幕府を取り戻す」という思いが強かったのでしょうか。

基本的には、吉宗の行った享保の改革路線を踏襲していきます。

その手段として用いたのがあらゆる方面への「取り締まり」です。

思想面での取り締まり「寛政異学の禁」が招いた不運

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寛政異学の禁とは

さて、思想面で取り締まりを実施したものが

「寛政異学の禁」

「処士横議(しょしおうぎ)の禁」(幕府の政策に対する批判や、幕府批判を取り締まる)

でした。

中でも「寛政異学の禁」は、幕府の学問所で「朱子学」以外の学問を教えることを禁じたものです。

当時は朱子学以外にも、思想面では同じ儒学から古学、陽明学など。

また日本古来の考え方を重んじる国学や、オランダの言語や医学を学ぶ蘭学など異国の学問もありました。

しかし寛政異学の禁により、それらを幕府が正式に教えることはご法度となります。

その結果、招いた日本の危機

海外のことを学ぶものがいなくなり、幕府は「海外からの危機」に鈍感になりました。

(そもそも、定信は海外への関心が薄かった)

それに危機感を持った蘭学者たちが幕府へ諫言しようとしますが、それも「処士横議の禁」で処罰されるようになります。

しかし海外についての研究を怠るだけでなく、それに対する忠告を切り捨てた幕府は、その後窮地に立たされることになります。

外国船が、見計らったかのように日本近海や長崎へ現れるようになったのです。

幕府はその時対応に右往左往しますが・・

幕府のリーダーシップがいかに弱まったかを人々に見せつけることになります。

このころから幕府は力を失い始め、倒幕の流れへと突き進んでいくのです。

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