江戸幕府将軍12代目「徳川家慶」の治世を言葉で表すなら「内憂外患の時代」。
この言葉は水戸藩主徳川斉昭が家慶に送ったものですが、まさに適格な言葉だったでしょう。
この記事では徳川家慶の内憂外患の時代について家慶の人となりを交えて説明します。
将軍・家慶が心に抱えた内憂
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家慶が将軍になったのは11代家斉の50年にも及ぶ時代が終わってから。
家斉は50年の間に財政をひっ迫させ、幕府の権威も落とし、江戸幕府の栄光に陰りを落とした将軍です。
その後釜としてに将軍になった家慶は、大変不運な人物と言えるでしょう。
冒頭に書いた水戸藩主徳川斉昭は、そんな時に将軍に就いた家慶を心配して激励の手紙を書きました。
そこに書いた「内憂外患」とは
外にも内にも心配事があり、このまま放置すると大変なことになる
という意味。
徳川斉昭は家慶に幕府の危機を伝えたかったのです。
ところがこの手紙が、家慶にとっての「内憂」の種になります。
もともと自負心が強いのに長いこと父・家斉に抑え込まれてきた家慶は、外野からあれこれ指図されるのに嫌気が指していたようです。
斉昭ににも嫌悪感を示し、隠居を命じてしまいます。
(斉昭との不仲はしばらく続きますが、斉昭の7男を家慶が気に入ったことがきっかけで関係が改善します。
斉昭の7男は御三卿である一橋徳川家に養子にだされ、後に15代将軍徳川慶喜になりました。)
幕府の抱えた内憂外患
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斉昭に隠居を命じ、家慶は老中・水野忠邦を中心に「天保の改革」を行います。
ところがこの改革は享保・寛政の改革を踏襲したもので、もはや時代の流れにあっていませんでした。
忠邦はすぐに失脚します。
そこで代わって政治に携わったのが、安倍正弘でした。
正弘は幕府官僚との協調を大切にしながら、御三家や薩摩藩とも協力して幕政を立て直そうとします。
しかし国内はなんとか落ち着くか・・といった矢先に、海外から大事件がやってきました。
黒船の襲来です。
家慶の時代の海外情勢
ここで少し、当時の海外情勢を見ておきたいと思います。
家慶が将軍に就任して間もなく、中国でイギリスを相手に「アヘン戦争」が起きます。
身近な、しかも強大な国がヨーロッパの国に敗れるという出来事は、幕府にとって大きな衝撃でした。
それまで「外国船は有無を言わず打ち払う」と言っていた姿勢を軟化させ、「燃料や水を補給しても良い」とし外国との衝突を避けようとします。
でもあくまでも幕府は開国する気はありませんでした。
オランダからも開国を勧告されますが、穏便に断ります。
そうしつつ海防を整え、鎖国を続けようとしていました。
黒船の衝撃と、家慶その最中の死
しかし幕府のそんな意図は、アメリカからペリーが黒船4隻を率いてやってきたことでひっくり返ります。
当時、実は幕府はアメリカから戦艦がやってくるとういう情報を持っていたそうです。
でも来てもせいぜい1~2隻だと見積もっていました。
ところが現れたのは、予想をはるかに上回る4隻の黒船。
しかも翌年には9隻を引き連れてきたので、戦争を避けるためにはもはや開国を受け入れざるをえなくなりました。
家慶はそんな最中、ペリーが来航してすぐに熱中症のため死去しています。
しかし死ぬ前に徳川斉昭を幕政に復帰させ外交問題にあたらせるようにするなど、瀬戸際でなんとか凌ごうとしたようです。
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