幕末に尊王攘夷のカリスマとして崇められた徳川斉昭(なりあき)は9代目水戸藩主です。

水戸藩は徳川家康の11男の入封によって成立し、尾張・紀伊とともに御三家と呼ばれる特別な家格。

そんな名門の出身でありながら、徳川斉昭は本人の意思とはかけ離れ、多くの志士を「倒幕」へと駆り立ててしまいます。

この記事では、その大きな矛盾が生まれてしまった背景を、時代をさかのぼって説明をします。

始まりは、水戸黄門が始めた「大日本史」編纂事業

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発端は江戸時代初期。

「水戸黄門」で有名な徳川光圀までさかのぼります。

その頃、水戸藩では藩をあげて遂行を始めた事業がありました。

それが「大日本史」の編纂です。

この事業は明治になるまで続き、完成したのはなんと1906年のことですが、この「大日本史」編纂にまつわる活動が後の水戸藩の立場を決定していくことになります。

というのは、「大日本史」は神武天皇から南北朝統一までの日本の歴史を記述したもの。

この一大事業は、それに携わった人々と共に「尊王賤覇(そんのうせんぱ)」の国体観を醸し出したのです。

「尊王賤覇」とは、「天皇が尊く、覇者(将軍)は蔑むべきもの」という考え方です。

覇者である徳川の家系でありながら大日本史の編纂によって、水戸藩は図らずもこの考え方を支持することになっていきます。

徳川斉昭が尊王攘夷の旗頭になることは、すでに江戸時代の初めに決まっていたのかもしれません。

尊王攘夷のカリスマになった「徳川斉昭」

時代は流れ、9代目水戸藩主となった徳川斉昭。

斉昭は革命を好み、リーダーシップに溢れる人物だったようです。

藩主に就任した翌日から藩政改革をスタートし、それに向けてまず人材を刷新。

領内の総検地や、藩校「弘道館」を創設しています。

これらの改革は「天保の改革」と呼ばれ、同時期に行われた幕府による改革や他藩の改革に大きな影響を与えました。

この行動力やリーダーシップは斉昭の唱える「尊王攘夷論」に大きな説得力を与えたでしょう。

混乱した時代には、救世主のように見えたかもしれません。

将軍との対立・失脚が、過激志士たちに火をつける

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しかし斉昭は、その溢れるリーダーシップのせいで歴代の将軍たちと確執を生んでいきます。

特に12代将軍家慶から疎まれ、一時は隠居も命じられました。

ところがペリーの来航によって訪れた国難に、幕府は斉昭の力を必要とします。

斉昭は隠居が解け幕政に復帰。

また隠居の間に7男(慶喜)を御三卿の一橋徳川家へ養子に入れるなど、自らの力を強めることも忘れていませんでした。

しかし再度、斉昭は窮地に立たされます。

13代将軍家定・大老井伊直弼と対立していた斉昭は、自らの子・慶喜を将軍に推す将軍継嗣問題に敗れます。

また行き過ぎた幕政批判を理由に、安政の大獄で処罰されることになりました。

しかしこの処罰は幕政に反感を持つ志士たちの感情をあおり、幕府にとっては裏目にでます。

大老井伊直弼が暗殺されるという事件まで起こり(桜田門外の変)、幕府への反感は一層高まっていきました。

斉昭は尊王攘夷を主張したものの、倒幕まで意図していたわけではありません。

現に、自分の子を将軍にしようともしています。

ところが自分や水戸藩が掲げた「尊王」の訴えが、自らの知らないところで「倒幕」への過激な動きにもつながってしまったのでした。

斉昭死後、息子慶喜は将軍に・・斉昭は本望だったのか?

斉昭は安政の大獄で謹慎させられたまま、死を迎えます。

その後薩摩藩の働きかけで慶喜の将軍就任を推した一橋派の処分は解け、一橋派が幕政に復帰します。

14代将軍家茂は一橋派の意見に耳を傾け、連携して幕政が執られるようになりました。

そして家茂の死後、斉昭の念願通り慶喜は江戸幕府の将軍となります。

ただし幕末の混乱の中、徳川将軍家も水戸藩も大きな困難の中に立たされることに。

慶喜は大政奉還後、窮地にたたされ戊辰戦争に突入。

なんとか命だけはまぬがれるものの、政治的な立場をはく奪されます。

一方水戸藩は、斉昭の子・慶喜が将軍でありながら反幕の動きが一層過激化し、水戸藩には死を恐れない志士たちがつめかけることになりました。

斉昭がかがげた「尊王」は、斉昭の意図しないところまで民衆を刺激して、暴発してしまったように感じます。

息子の慶喜が将軍になりながら、追いつめられる立場に立つことは望んでいなかったでしょう。

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