「京都守護職」とは、幕末の動乱のなか治安の悪化した京都や御所、二条城を警護するために作られた幕府の役職です。
実際にその役割についたのが「会津藩主 松平容保(かたもり)」でした。
松平容保は天皇や朝廷にも支持され、京都守護職として日本を守ろうとしますが・・
やがて逆賊として扱われるように。
なぜこのような「立場の逆転」が起こってしまったのでしょうか?
出来事の経緯を踏まえて解説します!
本当は京都守護職になりたくなかった松平容保
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容保を京都守護職に指名したのは一橋慶喜(のちの15代将軍徳川慶喜)や松平春嶽でした。
しかし容保をはじめ、会津藩士たちは引き受ける気になりません。
というのも、京都守護職は引き受ければ毎年1000人の藩兵を常駐させることになっていたからです。
財政を圧迫するのは目に見えています。
それでも容保は、守護職を引き受けざるを得なくなるのですが、それは
「会津藩は将軍家を守護すべき」
という、初代藩主保科正之のつくった家訓に従ったためでした。
こうして容保は京都守護職を引き受けることになりますが・・
初めは攘夷派の志士達を、武力で弾圧する気もありませんでした。
なげやりだった訳ではなく、むやみに押さえつけても人は主張を捨てることは無いと、分かっていたからです。
容保の行動を「攘夷派弾圧」に変えさせた事件・・新撰組も配下に
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ところが1863年、三条河原に足利将軍3代の木像の首がさらされると、容保は態度を硬化させます。
「足利将軍は天皇をないがしろにした」
という批判を表したその行為を、同じように征夷大将軍に任ぜられた徳川家への猛烈な批判として受け取ったのです。
また征夷大将軍を批判することは、任命している天皇への侮辱にもつながります。
容保は朝廷から攘夷派を一掃すべく、動き出します。
まず手始めに、八・一八政変を起こして長州藩や攘夷派公卿を追い出します。
また、池田屋事件で活躍した新撰組を使い、京都市中の徹底的な警備を行い始めました。
長州藩が起こした禁門の変では、迫りくる長州藩兵を会津藩と共に駆逐し、御所を守ります。
その結果、皇室や一般市民から歓迎をされるものの、攘夷派からの深い恨みを買うことになりました。
孝明天皇の崩御とともに、崩れ始める容保の運命
容保のこうした活躍は、当時の天皇である「孝明天皇」に最も支持されていました。
孝明天皇は「幕府と力を合わせる(公武合体)」という方針だったのです。
ところが天皇が崩御されると、その体制は一気に崩れます。
討幕派の公家・岩倉具視らと薩長二藩が主導権を握り、幕府は劣勢に立たされることに。
容保の運命も幕府と共に、この後大きく崩れていくのでした。
将軍慶喜は討幕派の機先を制そうと「大政奉還」を行い徳川政権の存続を狙いますが・・
逆に討幕派の起こしたクーデター「王政復古の大号令」によって権力を奪われてしまいます。
容保の京都守護職も、この時解任されることになりました。
その後、徳川家の最後の砦として松平容保は戦いますが、合津の地で降伏することになります。
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