江戸時代の事柄のうち、多くの人の興味をそそるものといえば「大奥」ではないでしょうか。

なにやら謎めいていて、タブーの香りが漂いますが・・

その「大奥」のしきたりや組織構成について、分かりやすくまとめてみました!

「大奥」はどこにあったの?

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「大奥」という言葉を聞いたことがある人は多くても、「どこにあったのか」と聞かれるとはっきりしない人も多いのでは。

大奥は、江戸城本丸(現在の皇居東御苑)内に作られた本丸御殿の中にありました。

本丸御殿は大きく分けて3つのエリアで構成されていましたが、大奥はそのうちの1つです。

本丸御殿の半分以上の面積を占めていたといいます。

ちなみにその他の2つのエリアは「表(おもて)」「中奥(なかおく)」と呼ばれていて

「表」は役人たちが詰めたり政治が行われたりする場所

「中奥」は将軍が日常生活を送る場所

でした。

「大奥」の構造

大奥の内部は、さらに3つの空間で構成されていました。

「御殿向(ごてんむき)」「長局向(ながつぼねむき)」「広敷向(ひろしきむき)」です。

「御殿向」には将軍の寝所や将軍と奥女中の対面の場、御台所や子供たちの居室がありました。

「長局向」には奥女中たちの居室や側室の居室がありました。

奥女中のための部屋の数は100ほどもあり、身分の高い奥女中には個室が与えられましたが、ほとんどの奥女中は共同生活をしていました。

また側室については、子供を身ごもると個室が与えられ「御部屋様」となりました。

「広敷向」は大奥に関する事務作業や警備をする男性の役人が詰めていました。

この空間だけは男子禁制ではなく、反対に女人禁制のエリアでした。

「大奥」に住んだ人たち

大奥は将軍の正室(御台所)や側室が住んでいたというイメージがありますが、実際にはどんな身分の人たちが住んでいたのでしょうか?

実際には、御台所や側室に加えて、将軍の子供や大奥に勤務する奥女中たちも暮らしていました。

勤務する奥女中の数は、側室や子供の数によって異なりますが、常時500人ほどはいたといいます。

最も多くの人が大奥に居住していたのは11代将軍・徳川家斉の時代。

家斉には55人もの子供がいたため、奥女中の数は1000人にも上ったと言われています。

「大奥」のしきたり

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将軍が通ると鈴を鳴らす「御鈴(おすず)廊下」

有名な大奥のしきたりと言えば、「将軍が大奥へ向かう時に廊下で鈴が鳴らされる」というもの。

この廊下は将軍の居室である「中奥」と大奥の間にありました。

実際には廊下は2本あり、それぞれ「上の御鈴廊下」「下の御鈴廊下」と呼ばれましたが、通常使われたのは上のほう。

下の廊下は非常口のような扱いでした。

厳しい門限「七ツ口」の門

奥女中の出入りは大奥にある「七ツ口」と呼ばれる門で行われていました。

「七ツ口」と言うのはおよそ午後四時のこと

これは奥女中の門限を指していて、この時間を過ぎれば絶対に大奥に入ることは許されませんでした。

(奥女中がこの門限を破り問題になったのが「江島生島事件」です。)

将軍に会うたびに着替える「お召し替え」

大奥では将軍に会う時、敬意を表して着替えをすることが義務付けられていました。

これを「お召し替え」といいます。

同じ日に何度も会う時は、その度に着替える必要がありました。

☆その他こまごましたしきたりはこちら

『大奥のしきたり・出産編!将軍の子を産むって、大変なことです』

「大奥」の組織構成

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大奥は将軍の正室である「御台所」をトップに、女性だけで構成されていました。

その下に仕えているのが、奥女中の中で最も階級の高い「上臈(じょうろう)御年寄」です。

上臈御年寄は御台所の輿入れの際に側近として大奥に入ったものが任命されました。

御台所は3代将軍・徳川家光以降、五摂家や宮家・天皇家など身分の高い公家から迎えていたため、上臈御年寄も公家の娘たちで占められました。

その次の階級が「御年寄」と呼ばれる奥女中です。

御年寄は、大奥の中で20年以上のキャリアを積んだ奥女中のうち、旗本家の出身の娘だけが任命されました。

御年寄になると幕府の閣僚である老中に匹敵する政治力を持ったといいます。

また、御年寄に出世するための王道パターンは「御客応答(おきゃくあしらい)」という役職を経験することでした。

御客応答は大奥を代表した応接役で、外交官のような役割を持っていました。

☆☆☆

以上、大奥についての概要をざっとまとめてみました。

ところが奥女中の細かい役職や御台所の日常生活などはまだまだ伝えきれず・・

あらためて、もっと詳しい記事を書いていきたいと思います!