江戸時代の大奥と言えば「男子禁制」「厳しい掟の場」。
でも初めからそうだったわけではなく、徐々にその形を整えていったようです。
ここでは、「大奥の成り立ち」に関する歴史を分りやすくまとめてお伝えします!
大奥が造られた「二代目将軍・秀忠」の時代
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大奥は江戸城の本丸御殿にありましたが、実は初代将軍・徳川家康のころにはまだ存在していませんでした。
大奥が江戸城本丸に造営されたのは、二代目将軍に徳川秀忠が就任してから。
その頃の大奥はまだ「男子禁制」が徹底されておらず、また御台所(将軍の正室)や大奥の女中が表に出ることもありました。
大奥の支配者「春日局」
初めのうち大奥を取り締まっていたのは秀忠の御台所「お江」でしたが、その死後に実権を握ったのは三代将軍・家光の乳母である「春日局」でした。
春日局は大奥を統率し、さまざまな掟を制定していったと言われています。
大奥のルールをしたためた「大奥法度」の制定
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初めはきまりの曖昧だった大奥も、その後「大奥法度」(1618年)が出され厳しく取り締まられるようになります。
初めの大奥法度で取り締まられたのは、男性の立ち入りや不審者の侵入でした。
この大奥法度は時代を追って加筆され、
機密保持に留意する条項が加えられる(1623年、1670年)
風紀の乱れを取り締まり質素倹約を奨励(1721年)
と、徐々に完成されていきました。
大奥の構造が整えられた「明暦の大火」
建物・構造物としての大奥が完成したのは、1659年「明暦の大火」の後のこと。
明暦の大火とは、明暦三年(1657年)に江戸で起こった大火災のこと。
火事は2日間続きましたが、その間に江戸城や大名屋敷、市街地の大半を焼失したと言われています。
この大火災のあと、幕末まで続く構造物としての大奥が完成しました。
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