江戸時代を代表する歓楽街といえば「吉原」です。
この記事では、吉原の移転から階級の変遷など、時代ごとの吉原遊郭の変化をまとめました!
(吉原の誕生までの話しは、この記事をみてね ↓)
『日本の「遊女の歴史」遊女という職業の誕生から吉原遊郭が出来るまで』
吉原遊郭の移転、「新吉原」の誕生
吉原遊郭が江戸の唯一の遊女街として、江戸の町はずれに誕生して40年ほどたったころ。
江戸の町はずれだったはずの吉原の周りに、大名屋敷が立ち並ぶようになりました。
江戸の人口が急増したためです。
そこで幕府は、遊郭主たちに移転を命じます。
移転先として選ばれた場所は浅草でした。
明暦の大火が移転を後押し
幕府や遊郭主たちが移転を検討していた矢先に、吉原の移転を後押しするような事件が起こります。
「明暦の大火(1657年)」です。
この火事で江戸の町のほとんどは焼け、吉原もこれをきっかけに浅草で新たに開店することになりました。
移転後の吉原は、移転前と比べて敷地面積が1.5倍。
禁止されていた夜間の営業が解禁されるなど、パワーアップした新しい吉原の誕生となりました。
ちなみに移転前の吉原を「元吉原」。
移転後の吉原を「新吉原」と呼び、区別されています。
遊女の階級の変化
時代とともに場所が移転したように、そこで働く遊女の階級も時代によって変化していきます。
元吉原誕生のころ
吉原が誕生したころ、遊女の階級は「太夫(たゆう)」「格子女郎(こうしじょろう)」「端女郎(はしじょろう)」の3つでした。
太夫は最も高級で、教養や芸術にも優れていて主に裕福な武士を相手にしました。
格子女郎は太夫に次ぐ格で、持っていた部屋の名前からこの名がついたといいます。
端女郎は最も下級の女郎で、ついた値段は太夫の7分の1でした。
元吉原末期から元禄時代(17世紀末ころ)
吉原の移転前後から17世紀の終わりごろにかけては、吉原の客層が武士から豪商へと変化した時代でした。
それに合わせて女郎の階級も変化します。
格子女郎は太夫に統合され、端女郎はいなくなりました。
代わりに「散茶女郎」という中級女郎と「梅茶女郎」というそれに次ぐ女郎階級が誕生しました。
また病気などで店で働けなくなった女郎は「切見世女郎」と呼ばれ、河岸でたむろして商売をするようになりました。
18世紀はじめから享保期(1736年まで)「花魁」の誕生
元禄時代が過ぎると、客層は豪商から庶民へとまた変化していきます。
その結果、高級女郎だった太夫という階級も消滅してしまいました。
しかしそのうちに「散茶女郎」が分化し、「呼出(よびだし)」「昼三(ちゅうさん)」「付廻し(つけまわし)」「部屋待ち・座敷待ち」と、新たな階級が生まれました。
このうち「呼出」の別名を「花魁(おいらん)」と呼び、花魁が客のいる店まで向かう行列は「花魁道中」と呼ばれました。
吉原で遊ぶ時のしきたり
吉原は遊女屋ですが、遊女と遊ぶためには段取りが必要でした。
初めて会い儀式をするだけの「初会」
初めて会う時、遊女はわざとよそよそしい態度をとり、実際に遊女と遊ぶことは出来ませんでした。
代わりに酒宴をもよおし、にぎやかに過ごしたようです。
二回目は「裏を返す」
二度目に会うときは「裏を返す」と言います。
遊女は一度目の時よりも打ち解けた様子を見せますが、この時もまだ遊女とは遊べません。
三回目でようやく「馴染み」
三度目にはようやく遊女も打ち解け、仮の夫婦として床にはいります。
ただしこの時から、「馴染み金」と呼ばれるチップのようなものが必要になります。
☆☆☆
吉原で遊女と遊ぶことは決して簡単なことではなく、手間もお金もかかりました。
それでもこの手間とお金をかけることを「粋」と考じた客たちが、吉原へ通っていたのでしょう。
※上記の情報は複数の文献で調べました。階級の名前などは文献同士でも異なる部分があったので、割愛しているものもあります。