江戸時代の日本で一番有名な歓楽街(遊郭)といえば江戸の「吉原」ですが、日本の各地にはどのような遊郭があったのでしょうか?
「日本の三大遊郭」とも呼ばれる特に有名な遊郭を、3つ紹介します。
(「吉原遊郭」についてはこちらの記事をご覧ください。)
『日本の「遊女の歴史」遊女という職業の誕生から吉原遊郭が出来るまで』
京都に秀吉公認で作られた「島原遊郭」
京都にはもともと豊臣秀吉の公認のもとに作られた遊郭があり、これが後に「島原遊郭」と呼ばれ、日本三大遊郭の一つと言われるようになります。
はじめは二条柳町にありましたが、秀吉の死後に六条三筋町へ移転。
さらに江戸時代に幕府の命令で九条朱雀通りに移転して「島原遊郭」と呼ばれるようになりました。
「島原」というと九州・長崎の島原を連想してしまいますが、それももっともな話し。
「島原遊郭」という名前は、当時の移転の騒ぎが「まるで島原の乱のようだ」と言われたことから呼ばれるようになったためです。
島原遊郭は祇園に匹敵するほど盛り上がりますが、幕末に衰退していきます。
大坂の浪人が作った「新町遊郭」
浪人・木村又次郎が幕府に申し出て許可を取り、沼地を切り開いて作った遊郭です。
それまで沼地だったところが新たに町になったことから「新町」と呼ばれました。
江戸吉原の太夫(高級遊女)の間では髪飾りを減らしたすっきりした髪形が流行ったのに対して、新町では髪が見えないほどの飾りをつけることが流行ったといいます。
明治期まで続きましたが場所を移転したことをきっかけに徐々に衰退。
太平洋戦争で焼かれ、消滅しました。
長崎で戦後まで続いた「丸山遊郭」
三代目将軍・家光のころに長崎の丸山に作られた遊郭。
長崎中の遊女が集められ、隆盛を誇りました。
その賑わいは井原西鶴によって
「せっかく商売で儲けた商人たちが、儲けを使い果たしてしまう」
と書かれるほど。
丸山には有名な高級料亭「花月」もあり、長崎を訪れた外国人や坂本龍馬にも親しまれました。
丸山遊郭は太平洋戦争後まで続きましたが、戦後につくられた「売春防止法」により終わりを迎えます。
(料亭「花月」は料亭としても史跡としても健在です。)