高杉晋作は29才の若さで亡くなりましたが、一貫して討幕の主張を貫き、揺れる長州藩を討幕派にまとめあげました。
その後長州藩が明治維新の中心として活躍できたのは、高杉晋作のおかげといっても過言ではありません。
この記事では、高杉晋作が短い人生で成し遂げたこと・明治維新における功績を解説します。
高杉晋作のプロフィール
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高杉晋作は天保10年(1839年)、長州藩の上士の家に生まれました。
10代のころは藩校の明倫館で学び、1858年に吉田松陰の「松下村塾」に入門します。
同じ門下生の久坂玄瑞が一番のライバルでした。
その後さらに勉強するために幕府の公式学問所である「昌平黌」へ入学。
翌年長州へ帰国した時に安政の大獄がおこり師の吉田松陰が刑死します。
この時、晋作は幕府への復讐を決めたといいます。
上海視察で西洋の脅威を目の当たりにする
1861年、高杉晋作は長州藩主・毛利定広の小姓になりましたが、その過激な発言から藩内の危険人物とみられていました。
そのため晋作を藩から遠ざけるために、定広は晋作を幕府の上海の視察へ随行させることにします。
そこで晋作が見たのが、西洋列強によって植民地化したアジアの実情でした。
「このままではいずれ日本も同じ道をたどる」
と感じた晋作は、この時から攘夷運動(外国を打ち払う)にまい進し始めます。
晋作は藩内で、幕府の支配から独立し富国強兵に努める「割拠論」を主張しましたが、相手にされませんでした。
過激な攘夷の決行と奇兵隊の誕生
藩内で相手にされない晋作は、仲間を集めてイギリス公使館を焼き払うなど過激な行動にでます。
その後晋作は出家し隠遁しますが、その動きにひっぱられてか長州藩も単独で外国船へ向けて攘夷を決行するなど、過激な行動に出るようになりました。
またこの戦争で長州藩は晋作の主張を認め、軍隊設立のために晋作を呼び戻します。
この時つくられたのが「奇兵隊」です。
京都での政変、禁門の変で不遇の立場に
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このように「攘夷派」として統一しつつあった長州藩ですが、「八・一八政変」で京都から排斥されるように。
これによって長州藩内の攘夷派派閥も立場が危うくなりました。
そこで焦った攘夷派の長州藩士たちは、京都で天皇を拉致しようと御所へ兵を向けます(禁門の変)。
この襲撃は失敗し朝敵になってしまった長州藩は、幕府からの征討を避けるために幕府へ恭順な態度をとるしかありませんでした。
それでも一貫して反幕府の姿勢をとる晋作は、九州へ亡命して生き延びます。
再び奇兵隊を挙兵し、藩論を討幕へ一致させる
九州へ亡命した後も晋作の討幕への熱意は冷めず、長州藩へ戻り藩論を統一するための動きを取り始めます。
晋作は死を決意して、「奇兵隊」を再度決起し、藩へ主張を始めました。
最初、集まったものは80名ほどしかいませんでしたが、決死の覚悟の晋作に徐々に賛同者が増えます。
藩兵たちも奇兵隊とぶつかりながら晋作側に転じるものが増え、藩論を討幕へ塗り替えることに成功しました。
その後長州藩は薩摩藩と同盟を結び、幕府を追い込んでいきます。
☆☆☆
この時晋作はすでに肺の病に冒されており、幕府の大政奉還や王政復古の大号令に立ち会うことなくこの世を去ります。
その後多くの長州藩士は明治維新の中心に立って活躍しますが、これも晋作が討幕の主張を貫き藩を引っ張ったからではないでしょうか。
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