長州藩で過激な攘夷を主張した高杉晋作は、御楯組という集団を結成し「イギリス公使館を焼き討ちにする」という行動に出ます。
この行動に高杉晋作はどんな思いを込めたのでしょうか?
イギリス公使館焼き討ちなどの御楯組の行動にこめられた、高杉晋作の信念を解説します!
高杉晋作のプロフィールについてはこちらから↓
国の盾になる集団として結成された「御楯組」
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高杉晋作は、幕末の志士の中でも特に「過激で突拍子もない行動をする人物」という印象があります。
でもそれは単に奇をてらった訳ではなく、彼の行動の根底には吉田松陰が唱えた「楠公七生説(なんこうしちしょうせつ)」があったようです。
「楠公七生説」とは、「確固たる志を持った人物の魂は七度現世に蘇る」という意味の教え。
だから死を厭わないほどの覚悟を持って行動すれば、例え死んだとしても必ずその信念は貫かれると、松陰は教えました。
加えて晋作は、「革命には狂気が必要だ」という松陰の主張に激しく共感します。
確かに、国を変えるほどの大きな変化には、人々の常識を壊すことが必要です。
それをするための集団として作られたのが「御楯組」。
国を変えるために、命をかけて狂気を演じようとしたのです。
一見無意味な「狂気」を演じることの意味
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狂気を「演じる」というのが御楯組の目的であるように、その行動はデモンストレーション的なものが多かったようです。
品川御殿山にあったイギリス公使館の焼き討ちでは、派手に火を点けたものの移転工事中のため人的被害もありませんでした。
また安政の大獄の刑死者への恩赦で吉田松陰を正式に埋葬することが許されたときは、将軍専用の橋を渡るという行動も行いました。
他には、14代将軍の徳川家茂が加茂神社に参拝したとき、沿道から「よ!征夷大将軍!(お前は「異人を討つ」ための将軍だろ!という意味)」と声をかけるなど・・
どれも危険で派手ではあるものの、体制に影響を与える訳ではない、小さい行動と言えば小さい行動です。
でもそれもこれも、
「デモンストレーションによって人々の心を反幕・攘夷に向ける」
ことが目的。
そしてこの小さな行動が、大きな変化を生んでいくのです。
晋作の狂気がついに藩を動かす
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上記のような晋作の活動は、初め危険視されるばかりで大きな影響力を持ちませんでした。
しかし一貫して行動を続けることで、次第に状況が変わっていきます。
長州藩内は攘夷派や佐幕派が中心を握り合い不安定な時期が続いていましたが、高杉晋作が結成した奇兵隊が徐々に勢力を大きくし、ついに長州藩の中心勢力となります。
その後晋作は結核のために新しい時代を見ることなくこの世を去りますが、彼の信じた通り
「死をも厭わないほどの覚悟でする行動は、死んだ後も信念を受け継いでいく」
ということが体現されたのです。