幕末に朝廷と幕府が手を結ぶ「公武合体」の実現のために行われたのが、14代将軍徳川家茂と皇女和宮との結婚です。

この記事では和宮降嫁決定から死に至るまでの和宮の生涯をまとめました。

大老・井伊直弼の発案した和宮降嫁

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和宮は、仁孝天皇の第八皇女として、1848年に生まれました。

後に結婚する徳川家茂も同い年です。

その和宮の降嫁をもって公武合体を推し進めるという案は、大老の井伊直弼から発案されました。

尊王攘夷の声を抑えるための「公武合体」

そもそも井伊直弼が公武合体を進めようとした背景に、1854年の日米和親条約締結があります。

和親条約締結後、国内は開国か攘夷かの二派で対立することなりますが、開国派は幕府が、攘夷派は朝廷が先頭にたっていました。

国内には朝廷を重んじるもの、開国を嫌がるものも多く、そのため幕府は求心力を欠いていきます。

この状況を打開するために取ろうとしたのが、「幕府は朝廷と手を取り合って政治をしている」ことを示すための「公武合体」策でした。

公武合体を打ち出すことで、尊王攘夷派に牽制を取ろうとしたのです。

それを日本中に知らしめるために計画されたのが「皇女和宮の降嫁」でした。

これを発案した井伊直弼は桜田門外の変で命を落としますが、老中・安藤信正がこれを引き継いで実現させていきます。

反対の中の「和宮降嫁」決行

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和宮ははじめ、この降嫁を大変嫌がったと言います。

それは彼女にすでに有栖川宮熾仁親王という婚約者がいたからです。

ところが公武合体に賛成する諸藩や公卿の岩倉具視の働きかけにより、和宮の意思に反して決行されることになります。

代わりに幕府は攘夷の決行を約束しました。(ただしこれは幕府側によって無断で反故にされます)

「縁切りの木」すら恐れた幕府

和宮の降嫁は過激な尊王攘夷の志士たちの反感も買っており、和宮が江戸へいくまで安心できません。

そのため志士たちの襲撃にそなえて、東海道ではなく中山道を通り江戸へ入りました。

ところが中山道の最後の板橋宿には有名な男女の縁を切る「縁切り榎」があり、幕府はこの効力を大変恐れました。

そこで和宮が通る際には、榎に菰を巻いて効力を弱めたということです。

徳川を愛した将軍の御台所としての和宮

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婚約者と引き離され嫌々江戸へ連れてこられたものの、家茂と結婚し御台所となった和宮はすぐに気持ちを切り替えたようです。

夫として家茂を大切にする姿や、「私は徳川家のために生命を捨てる」といった姿勢が幕臣の勝海舟によって語り継がれています。

夫の家茂は第二次長州征討のさなかこの世をさり、和宮は21歳で未亡人となりますが、戊辰戦争の際にも徳川家の存続のために朝廷へ熱心に掛け合いました。

そして32歳で亡くなるときには、「皇室の墓ではなく徳川家の墓へ」と言い残しています。

和宮と元婚約者・有栖川宮熾仁親王との因縁

このように結婚後は徳川家にささげた和宮ですが、婚約者だった有栖川宮熾仁親王が戊辰戦争の際の東征大総督(徳川幕府討伐の責任者)になるなど、悲しい因縁があります。

有栖川宮熾仁親王も、和宮をとられたという気持ちがあったのかもしれません。