黒船が下田へ来航し、開国した幕末の日本。

その下田の地に総領事として駐留したハリスというアメリカ人がいました。

「唐人お吉」と呼ばれた女性は、そのハリスの看護役に任命された女性です。

しかしそのために、その後の人生を偏見の中で生きることになります。

そんなお吉の哀しい生涯をまとめました。

お吉の生い立ち

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お吉は1841年に下田で生まれました。

父は船大工をしていましたが、大酒のみのために体を壊してお吉が幼いころに亡くなってしまいます。

生計を立てられなくなったお吉の母はお吉を実家に預け、その後村田せんという女性の養女となりました。

せんの家でお吉は音曲や踊りを習いますが、せんもお吉が12才のころ他界。

14才で芸者になりました。

芸者になったお吉は、西洋人形のような美貌とその声でたちまち評判になりました。

アメリカ総領事ハリスとの出会い

そんな中、下田で事件が起こります。

アメリカの総領事タウンゼント・ハリスが駐留することになったのです。

もともとの条約では総領事の駐留は日米間で紛争がおこった場合に限られていたため、ハリスの駐留は大騒ぎになります。

日本側はこれに激しく抗議しますが、ハリスはそれを聞かずに通訳官のヒュースケンと共に玉泉寺という寺を駐留所としました。

お吉は同じ芸者のお福という女性と共に、ヒュースケンの指名で彼らの世話役に任命されます。

お吉を悩ませる偏見

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ヒュースケンが評判の芸者のお吉やお福を指名したので誤解されましたが、実はハリスは純粋な看護師を求めていたようです。

ハリスには持病があり病弱で、身の回りを世話する女性が必要だったからです。

その証拠に、お吉が看護師でなかったために3日で解雇され解雇金ももらっています。

しかし周囲はその事情を知らないために、

「らしゃめんお吉」

と好奇の目でお吉を見るようになりました。

お吉のハリスへの献身

周囲の日本人から好奇の目で見られる中、日米修好通商条約が締結された後体調を崩したハリスの元へ、お吉は駆けつけます。

一度は解雇されましたが、改めて献身的な介護をするようになりました。

その後ハリスは下田から江戸へ居留地を変える際に、お吉を伴っていきます。

お吉は1862年にハリスが帰国するまでハリスに伴っていました。

ハリスの帰国後、追い詰められるお吉。失踪と謎の死

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ハリスが帰国した後は下田で芸者として復帰しましたが、周囲からの視線に心を病んで下田を飛び出します。

京都へ移りすんだようですが、36才で目撃されたのを最後に行方をくらまします。

次にお吉が確認されたのは、それから15年後のこと。

下田川の門栗カ淵で、死体となって発見されました。