愛人といえば「日陰の存在」というのが世の常ですが、幕末の志士・高杉晋作の愛人「おうの」は別だったようです。
最後まで大切に守られ、死後も高杉家の墓の隣に葬られた「おうの」。
そんなおうのと高杉晋作の関係について調べてみました!
高杉晋作と「おうの」の出会い
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おうのはもともと、馬関の遊郭「堺屋」で働く芸妓でした。
源氏名を「此の花(このはな)」と言い、大変な美人だったようです。
おまけに晋作の言うことにはいつも頷いて素直に聞く、控えめな性格でした。
晋作はおうのを大変気に入り、亡命する際も帰藩する際も常に伴います。
高杉晋作と正妻「雅」
晋作とおうのはまるで夫婦のように過ごしていましたが、晋作には正妻がいました。
正妻は長州藩の町奉行の娘で、雅といいます。
雅の実家の井上家は現代でいう市長レベルの家格。
雅には縁談が殺到したといいます。
その中から父の平右衛門が3名選び、さらにクジ引きで決められたのが高杉晋作でした。
ちなみに晋作はアバタ顔だったので「小豆餅」というあだ名がついていて、クジで当たったのが晋作と知って
「なんだ小豆餅か」
と言ったとか・・
それを聞いた雅は落胆しますが、結婚後晋作は藩校・明倫館の舎長に昇進していることから、雅はある意味「あげまん」とも言えます。
愛人「おうの」と正妻「雅」
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このように結婚をしてはいたものの、晋作はほとんど長州にいなかったため、雅と過ごした時間は短かったようです。
それよりも常にそばにいたのは、おうのでした。
ところが晋作が下関に戻ったころ、雅が息子を連れて移り住んできます。
ここでおうのと鉢合わせをし、しばらく気まずい生活が続いたようです。
同じ藩の桂小五郎に愚痴をこぼしています。
晋作の死後も大切にされた「おうの」
結核を患っていた高杉晋作は、維新を迎える前にこの世を去ります。
おうのは尼となって「谷梅処(たにばいしょ)」と名乗り、晋作の墓を守りながら生きることになりました。
愛人ということで晋作の死後生活の術を失くしてしまいますが、山県有朋や伊藤博文らが晋作の代わりとなって経済的援助をしたといいます。
晋作の死後は雅とも和解。墓も隣り合わせに
また、明治維新後東京に移住した高杉家は、おうのとの交流を続けたようです。
おうのが東京へ来る際は高杉家に宿泊するなど、親密な様子が伝えられています。
愛人と正妻のわだかまりも消えたのでしょうか?
おうのと雅は、死後隣り合わせの墓に葬られ、晋作とともに眠っています。
☆☆☆
愛人とはいえ、晋作の家族や志士仲間から大切にされたおうのはとても幸せな人ですね。
おうのと交流を続ける正妻の雅も、きっと器の大きな女性だったのでしょう。
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