江戸幕府では、三代目将軍・徳川家光以降
正室は「五摂家・宮家から迎える」
ことを慣例としていました。
ではこの「五摂家」「宮家」とは一体何なのでしょうか?
解説してみました!
「五摂家」とは
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「五摂家」の「摂家」とは「摂政・関白になれる家柄」を指します。
ちなみに摂政は、天皇が幼いころに天皇に変わって政務を行う役職のこと。
関白は、天皇にアドバイスしたりサポートしたりする立場の役職を指します。
この「摂政・関白」になれる家柄には
「近衛」「鷹司」「九条」「二条」「一条」
の五家がありました。
全て平安時代に全盛を誇った藤原道長の子孫の家系です。
この「五摂家」は公家の中で最高の家柄でした。
「宮家」とは
「宮家」とは天皇の分家で、この場合特に「親王宣下により代々『親王』という位を名乗ることを許された家柄(世襲親王家)」を指します。
これにあたる宮家は江戸時代初期には
「伏見宮家」「八条宮家(のちの桂宮家)」「高松宮家(のちの有栖川宮家)」
の三家しかありませんでした。
のちに新井白石が「閑院宮家」を創設し、四家となります。
また例外として政治的な意図で、宮家ではなく皇女を正室に迎えるケースもありました。
(7代目家継(ただし家継死去のため実際には結婚せず)、14代目家茂)
なぜ「五摂家・宮家」から正室を迎えたのか
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「五摂家」「宮家」がどんな家柄かということは分かりました!
では、なぜ徳川将軍家は諸大名家からではなく五摂家・宮家から正室を迎えることにしたのでしょうか?
それには理由が2つあります。
1つ目に、特定の大名に権力を与えることを避けるため。
2つ目に、位の高い姻戚関係を手に入れて、どの大名よりも高い位を保つため
です。
大名から将軍家の正室を出せるとすれば、権力争いが生まれます。
争いの種を作らないことが目的でした。
ところが長い江戸幕府の歴史の中で、図らずもこの例外になってしまった婚姻がありました。
それが11代目家斉と、13代目家定の時です。
偶然輿入れした薩摩藩の姫
上記のように特定の大名から正室を迎えないようにしていた徳川家ですが、偶然が重なり薩摩藩から2度正室を迎えたことがあります。
まず11代目家斉の時。
家斉は当初将軍を継ぐ予定ではなかったので、薩摩の島津家と縁組していました。
ところがその後、将軍候補が亡くなり家斉が跡を継ぐことに。
そのため、歴代で初めて薩摩の姫が将軍の正室となったのです。
続いて13代目家定の時は、初め五摂家と縁組をしました。
ところが正室になる予定の姫君が病気で亡くなり、その代わりに縁組した姫君も結婚後すぐに亡くなってしまいます。
そこで11代家斉の正室の縁で、薩摩藩から正室(篤姫)を迎えることになったのです。
☆☆☆
この島津家との縁組は、徳川家が恐れていたように「特定の大名に力を与える」行為になりました。
幕末、薩摩藩は幕府への発言力を増し、そればかりか徳川家に代わって維新の中心になっていきます。
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