江戸時代、多くの遊女は生活に困って身売りしてきた女性たちでした。
そんな女性たちが亡くなると葬られたのが「投込寺(なげこみでら)」と呼ばれた無縁寺。
女郎の多くは、体を酷使し20代という若さで亡くなったのです。
「年季」が明けるまで生きられなかった女郎たち
江戸時代、江戸の町で公娼の場とされた「吉原」では、金に困った女性たちが「冥加金」という身代金と引き換えに女郎になっていきました。
彼女たちの年季(奉公を約束した期限)は18才から27才。
ところが女郎の仕事は重労働。
その上、粗食で、自由も休みもなく働かされたので、年季が明けるまでに病死する女郎が多かったそうです。
亡くなった女郎が葬られた「投込寺(なげこみでら)」
そんな風に、若くして亡くなった女郎たちが葬られた場所が、一般に「投込寺(なげこみでら)」と呼ばれる無縁仏を弔う寺です。
この種類の寺には、女郎たちだけでなく行き倒れの遺体も葬られました。
有名な投込寺には「西方寺」「浄閑寺」があります。
これらの寺の門前には大きな穴が掘られていて、女郎たちは亡くなるとこの穴に放り投げられました。
寺の過去帳によれば、亡くなった女郎の多くは二十代ということでした。
死ぬ前に逃亡を試みた遊女たち
そんな苦しい遊女たちの世界「苦界」では、当然のことながら年季が明ける前に逃亡を試みる女郎たちもいました。
それを防ぐために、女郎たちは自由な外歩きが禁止。
例外として許された外出は、客との同伴や医者・銭湯通いだけでした。
しかしその場合も、娼家の見張りが必ずついていました。
また万が一ひとりで抜け出すことに成功したとしても、吉原の中はところどころに入り組んでおり、抜け出す要所・要所には用心棒が張っていました。
つまり遊女の逃亡はほとんど不可能なことだったのです。