「おたあジュリア」は、秀吉の朝鮮出兵の際に日本に連れてこられ、家康の寵愛を受けた朝鮮の女性です。

ところが最後には島流しに遭うという、波乱万丈の人生を送りました。

そんあ「おたあジュリア」の生涯を、この記事では分かりやすくまとめています。

朝鮮から連れてこられた美少女「おたあジュリア」

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おたあジュリアは、朝鮮で生まれた女性です。

豊臣秀吉が命じた朝鮮出兵の際に、先鋒を務めた小西行長が戦火の中で出会い、日本へ連れてきました。

生まれた年や出自については何も伝わっていません。

おたあジュリアという名前も、日本でつけられた「おたあ」という名前に、「ジュリア」というキリスト教の洗礼名をつけたものです。

ジュリアは日本に来て小西行長の娘として育てられ、そこでキリスト教の洗礼を受けたのです。

育ての親が処刑され、家康のもとへ

ジュリアを娘として育てていた小西行長でしたが、行長が将をつとめた西軍は関ケ原の合戦で敗北。

小西行長は処刑されてしまいます。

しかし朝鮮から来た美少女のことを噂で聞いていた徳川家康が、おたあジュリアを侍女として召し抱えることになりました。

ジュリアに信仰を棄てさせようとする徳川家康

ジュリアを召し抱えた徳川家康は、そのころちょうどキリシタンを国内から排斥しようとしていました。

まずは駿府城内のキリスト教徒を改宗させようとしたのですが、その中には当然ジュリアも含まれていました。

家康はジュリアを寵愛するために、否が応でもジュリアにキリスト教を棄てるように迫ったのです。

ところがジュリアの信仰心は篤く、決して家康の説得に応じようとしません。

「可愛さあまって憎さ百倍」か、家康は次第にジュリアの行動を罵るようになりました。

島流しにあうジュリア。それでも心は「今までより番幸せ」

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こうして家康の説得を拒み続けたジュリアは、1612年、大島への島流しの刑を命じられます。

その後も次々と流刑にあい、最後に流されたのは神津島でした。

神津島は当時、思想犯などの罪人が流される島で、生活は不自由を極めたはずです。

ところが彼女は、城内で侍女として仕えていたころよりも幸せだと語っています。

それは、何者にも神への奉仕を妨げられることがないからでした。

偶然のシンクロ・・サザンの曲とジュリアの生涯

おたあジュリアの消息はその後記録されていませんが、神津島でジュリアの墓が見つかったことからジュリアは神津島で生涯を終えたと考えられています。

そんな波乱万丈なジュリアの生涯ですが、約400年ののちに驚くようなシンクロが起こります。

それは、サザンオールスターズが2004年に発表した楽曲「夢に消えたジュリア」の歌詞の内容が、おたあジュリアの生涯を髣髴とさせるものだったというものです。

タイトルにも「ジュリア」という名前が使われているほか、歌詞は南の島とキリスト教を連想させる内容になっています。

これほどまでのシンクロも、桑田佳祐さんは、おたあジュリアを知ってこの歌を作った訳では無いとのこと。

曲を作ったあとにおたあジュリアのことを知って、驚いたということです。

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