日本一の山として愛される富士山ですが、一般庶民が登山するようになったのは実は江戸時代以降と言われています。

そのきっかけは江戸時代に民間に広まった富士山信仰「富士講(ふじこう)」でした。

この記事では「富士講」がどのように始まったのか歴史をお伝えするとともに、その信仰の内容はどのようなものかを簡単にまとめました。

富士山信仰と富士講の歴史

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富士講の開祖は修験者・長谷川角行(かくぎょう)

富士山(正確には富士山の神・仙元大日)を信仰することは古くから修行者などによって行われてきましたが、それを庶民に広め始めたのは修験者の長谷川角行だと言われています。

角行は肥前の国に生まれ、富士山麓の「人穴(富士山の北西麓にある、昔、人が住んだとされる洞窟)」で修行をした修験者です。

修行によって仙元大日の霊力を得たとする角行は、1620年ごろから呪符を配り病人を癒すという奇跡を起こし始めます。

この角行の力を信じた人々が富士山を信仰する集まりを作り始め、それが「富士講」と呼ばれるようになりました。

(富士講の「講」とは信仰活動を行う結社のことを指すと同時に、その信仰活動そのものを指します)

江戸中期に「全ての庶民のための宗教」としてさらに発展

角行によって始められた富士講は、18世紀に食行身禄(じきぎょうみろく)という人物によって発展を遂げます。

身禄は富士信仰を

「真面目に働く庶民のための宗教」

と位置づけ、さらに信仰の男女平等を説き女性の富士登山も可能にしました。

「富士講」の活動内容は?

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富士信仰を行う富士講はだいたい町内や地域ごとにあり、それぞれが月に一回の法会を行うことになっていました。

法会の中心は「お焚き上げ」と呼ばれる祈祷をすることです。

この祈祷には、「病気の平癒」などの霊験があると言われていました。

その他、各地の富士講は毎年夏に数名ずつ富士山へ派遣し、登山しながら拝むという活動も行っていました。

そのための費用は共同で積み立てられ、その講の全員が登山できるように考慮されていたといいます。

信者の手で作られた身近な富士山「富士塚」

しかし体調などの都合で信者全員が富士山へ赴くことはやはり難しかったようです。

そんな「富士山へ行きたくても行けない」人々の為に、身近な信仰の対象として「富士塚」が作られました。

富士塚は富士山に見立てて作られた人工の山や塚で、リアリティを出すために富士山から持ち帰った溶岩を置いたり合数を示す標柱を立てたりしました。

人工の富士塚であっても人々はその霊験を信じ、実際の富士登山と同じく白装束で登ったといいます。

☆☆☆

このように特定の信仰活動を行う「講」は江戸時代後期に増え始め、伊勢神宮を参る「伊勢講」も有名です。

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