太田垣連月は、幕末の女流陶芸家です。

彼女の人生の前半は、愛する人との死別が続いた苦しいものでしたが、その後陶芸家として花開きました。

しかしそんな悲劇の中にありながら、人生の流れを変えたものは何だったのでしょうか?

太田垣連月さんの人生を振り返りながら、考えてみたいと思います!

太田垣連月の、悲劇の前半生

生後十日で養子に出される

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太田垣連月は、後に出家する前は「誠(のぶ)」と呼ばれ、伊賀上野の城代家老の子として生まれました。

しかし生後十日で京都知恩院の住職に仕えていた太田垣光古(てるひさ)のもとへ養女として引き取られます。

光古と彼の妻には連月より八歳年上の男児もいましたが、彼らは実の家族のように連月を大切にしたといいます。

悲劇の前半生といいながら、この頃は太田垣連月の人生の中で最も穏やかな時期だったようです。

13歳で養母と兄が死去

ところが連月が13歳のころ、養母と兄が相次いで死去。

連月は養父と2人で暮らすようになりますが、養父の願いで親類の男性に嫁ぐことになります。

夫のDVや子供の死去、離縁

しかし結婚した夫は博打打で、そのうえ酒・女遊びの酷い男性でした。

酔っぱらっては連月に暴力をふるったといいます。

3人の子供のために辛い日々を耐えていた連月ですが、その子供たちがなんと亡くなってしまいます。

こうして連月は最初の夫と離縁します。

2番目の夫と子供も、相次いで亡くなる

最初の夫と離縁した連月は、再び養父のすすめで夫を迎えることになりました。

今度の男性はとても穏やかで養父とも折り合いがよく幸せに暮らしていましたが、なんと再び悲劇が。

2番目の夫が結婚後わずか4年で亡くなると、彼との間にもうけた2人の子供も後を追うように亡くなってしまいました。

養父と2人出家するも、今度は養父の死

こうして絶望した連月と養父は、知恩院の計らいで与えられた山中の庵にこもり、出家して亡くなった家族たちの菩提を弔う生活を始めます。

しかしその生活も長くは続かず、とうとう養父も亡くなってしまうのです。

独りになった連月・・知恩院の庇護を離れ自活を決意

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天涯孤独になった連月はその後の生き方に悩んだことでしょう。

いまの庵にとどまって家族の菩提を弔うという道もありましたが、彼女は知恩院の庇護下を離れて独りで生きていくことを選びます。

連月は結婚前に養父から和歌や書道、裁縫だけでなく武芸も仕込まれて師範をすることも出来る腕前だったので、苦しくても自活する覚悟を決めたのです。

しかしひょんなことから知人より陶芸の道を勧められ、彼女の和歌を刻みいれた作品が「連月焼」として評判となります。

そんな彼女の存在は有名となり、多くの著名人が訪れるほどになっていったのです。

人生の流れを変えたのは「自力で生きる」という選択?

太田垣連月さんの前半生は、私だったら生きていく気力を失くしてもおかしくないと思います。

当時よりも女性が一人で生きることが簡単になった現代においてでさえ、私は離婚しただけで何もかも放棄したくなりました。

そんな中で、死ぬことでも誰かの世話になることでもなく「自分で生きていく」ことを選択するというのは、非常に難しいことです。

その強さがきっと、彼女の作品に他にはない魅力を与え、たくさんの人々を惹きつけることになったんでしょうね。

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