中国から入ってきた陰陽五行説が日本で独自の進化をとげて誕生した「陰陽師」。

その陰陽師が怨霊と闘い始めたのもまた、日本オリジナルのことでした。

ここでは、陰陽師が怨霊と闘い始めた経緯と、そのきっかけとなった「桓武天皇にかけられた呪い」についてまとめました。

なぜ陰陽師は怨霊と闘うようになったのか

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そもそも陰陽師が誕生したのは、政府が公的機関として「陰陽寮」を設置し、国家に関わる占いをそこに所属する陰陽師に任せたことが始まりでした。

陰陽寮の陰陽師たちの主な仕事は、天変地異や疫病などの原因を占うこと。

この「原因を探る」という部分で、日本独自の方向性が生まれていくことになりました。

というのも、中国では天変地異や疫病は「為政者の不徳」と決められていたのが、日本ではその概念が薄かったから。

そのため悪いことの原因は

怨霊の祟り(無念のうちに亡くなった人間の祟り)

物の怪や鬼の悪さ

神気による障り

などさまざまな物があると考えられました。

陰陽師は原因を占い、それに従って神社や僧侶の助けを得ながら祈祷や祓いも仕事として行われるようになっていきます。

桓武天皇にかけられた早良親王の呪いと、陰陽師の闘い

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「亡くなった人の無念が生きている人間を呪う」という怨霊の概念は、桓武天皇を呪った早良親王がはじまりだと言われています。

早良親王は無念のうちに亡くなり桓武天皇を呪ったため、陰陽師がはじめて怨霊としてその祓いをおこないました。

早良親王の無念のはじまり

桓武天皇が平城京から長岡京への遷都を計画した時、一つの暗殺事件が起こりました。

殺されたのは遷都計画責任者の藤原種継。

首謀者として捕らえられたのが早良親王でした。

早良親王は幼いころから奈良の東大寺との関りが強く、遷都に反感を持っていたに違いないとみなされたのです。

早良親王は関与を否定し、食事を絶って身の潔白を主張しますが、桓武天皇に聞き入れられないまま淡路島への流刑の途中でこの世を去ります。

遺体はそのまま海へと流されてしまいました。

怨霊となった早良親王のたたりで次々と亡くなる桓武天皇の近親者

早良親王が亡くなると、桓武天皇の身辺で次々と不幸が起こるようになりました。

まずは桓武天皇の側室が。

その二か月後には娘も亡くなります。

その後も不幸は続き、ついには母親や皇后まで亡くなっていきます。

その間には、長岡京は激しい雷と暴風にも見舞われました。

ついには皇太子である息子も病気になり、陰陽師が原因を探ることになったのです。

祟りを鎮めるために陰陽師がしたこと

陰陽師が皇太子の病気を占ったところ、原因は「早良親王の祟りだ」と断定されました。

そこで桓武天皇は早良親王の祟りを鎮めるために、まず淡路に早良親王の墓を建てます。

ところがその後も地震や皇太子妃が亡くなるなど、凶事は納まりません。

そこで桓武天皇は長岡京から平安京への遷都を行い、早良親王に「崇道天皇」という名を贈りました。

また陰陽師は淡路に赴き、鎮謝のための祭りを行いました。

しかしあらゆる手をつくしても、崇道天皇(早良親王)の呪いはなかなか鎮まらなかったといいます。

崇道天皇は現在も京都市にある「崇道神社」で祀られていますが、今でも祭の時には祟りが起こると言われているのです。

初めての怨霊との闘い、陰陽師の力が及ばなかったんでしょうかね(;’∀’)

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