平安時代の陰陽師の代表的存在・安倍晴明。
彼の子孫は、現代でも陰陽道を伝えているのでしょうか。
安倍家の陰陽道の行方を調べてみました。
「安倍」から「土御門(つちみかど)」への改姓
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安倍晴明の死後、陰陽道は「天文の術」を安倍家が、「暦の術」をもう1つの名家である賀茂家が世襲することになりました。
ところが賀茂家は途中で跡継ぎがいなくなり断絶してしまいます。
そこで安倍家が、「天文の術」と「暦の術」を引き継いでいくことになりました。
一方で安倍家は、南北朝時代のころに姓を「土御門」に変更します。
応仁の乱から戦国時代にかけて、陰陽師「不遇」の時代
応仁の乱から戦国時代のころ、土御門家は陰陽師として宮中に仕えていましたが、度重なる戦乱で京都には居られなくなります。
そこで所領である若狭国(福井県)名田庄に引っ込むことが多くなりました。
さらに戦国時代には、豊臣秀吉によって京都から追放されてしまいます。
陰陽師として不遇の時代が続きました。
江戸幕府の成立と土御門家の復権
しかし徳川家康が江戸幕府を開くと、当時の土御門家の当主「土御門ひさなか」は再び出仕を許されるようになります。
そして徳川将軍家のために代々祭を行うようになりました。
その祭は「天曹地府祭(てんちゅうちふさい)」と呼ばれるもので、長寿を願って行う「泰山府君祭」を強力にしたようなものでした。
土御門家をトップとして陰陽師が免許制になる
また江戸時代には、土御門家は「陰陽師という職業を資格制にする権利」を幕府からもらうことに成功しました。
これによって、土御門家に認められたものしか陰陽師を名乗ることが出来ないようになります。
「天文の術」「暦の術」を幕府へ明け渡す
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一方で、土御門家が世襲してきた「天文の術」と「暦の術」は幕府へ明け渡されることになりました。
それは、暦や天文の知識が現実から乖離してしまっていたためです。
そこで土御門家は天皇の命のもと学者の保井算哲(のちの渋川晴海)と協力して暦を作りなおし、その後は天文と暦の管理を幕府の天文方へ譲渡しました。
明治から現代にかけての陰陽師・土御門家
幕府が瓦解した後、陰陽師は庇護組織を失いますが、民間の宗教として存続されるようになります。
土御門家も代々政治家や学者などをしながら、陰陽道を存続させていきました。
ただし私が土御門氏をたどることが出来たのは太平洋戦争終戦ごろの家系まで。
その後土御門氏が存続しているのかどうかは、知ることが出来ませんでした。
しかし、土御門家が伝えてきた陰陽道は「天社土御門神道」として伝えられているといいます。
この組織の本庁はかつて土御門家の所領であった福井県名田庄に存在しています。
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