明治初期、大蔵省の役人として日本の近代化をすすめた「渋沢栄一」

彼はもともとは徳川慶喜に仕える幕臣の一人でした。

では幕臣であった渋沢栄一がなぜ、敵ともいえる新政府の重要人物になったのでしょうか?

この記事では、忠実な幕臣だった渋沢栄一が明治政府に参加することになった経緯をまとめてみました。

一橋家の家臣だった渋沢栄一

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渋沢栄一は、もともとは埼玉県の豪農の家で生まれました。

ところが若いころに攘夷運動に参加した経緯で徳川家の御三卿の一つ、「一橋家」と縁が出来、一橋家の家臣となります。

そして一橋家の殖産興業や財政改革に尽力し、手腕を発揮しました。

その後、一橋家の当主であった一橋慶喜が将軍になると、幕臣に転じます。

明治維新が起こった頃はちょうど、慶喜の弟の洋行に付き添っておりパリに滞在中。

急いで帰国したころにはもう幕府は倒れており、渋沢栄一は慶喜に従って静岡藩士となります。

静岡藩財政で利益を上げ一躍注目される

明治維新後、慶喜は多くの家臣を連れて静岡藩へ移住したため、藩の財政は大変圧迫した状況にありました。

そんな静岡藩の商業を活発にし、財政難を乗り越えさせたのが渋沢栄一です。

栄一は静岡藩に「商法会所」を設立。

豪農や商人、政府から出資してもらった資本をもとに、藩の主要産物だった茶や漆器を買い付けて藩外へ販売したり、肥料を大量に買い付けて農民に貸与したりと、商業活動を行いました。

その活動の結果、静岡藩は財政難を克服したばかりでなく大きな利益もあげ、渋沢栄一の手腕は政府に知られることとなります。

政府への出仕をいったんは拒んだ栄一

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渋沢栄一の手腕を知った明治政府は、当然のことながら栄一に出仕を求めました。

ところが栄一は、主君である慶喜のもとで静岡で働くことを望み、出仕を断ります。

しかし当時の大蔵省トップだった大隈重信からの、

「主君である慶喜のためにも断ってはいけない」

という説得で、ついに折れることに。

渋沢が政府への出仕を断ると、

「慶喜が明治政府を邪魔しようとしている」

と勘繰られる、とほのめかしたのだそうです。

明治政府を支えたのは有能な幕臣たち

こうして大蔵省に出仕することになった渋沢栄一は、近代化を進めるために有能な元幕臣たちを静岡藩から呼び寄せていきます。

例えば日本の郵便制度を作った「前島密」もその一人でした。

結局、渋沢栄一の財政改革は政府内に反感を呼び、栄一の出仕期間は約3年半と短い期間で終わってしまいます。

ところがフタを開ければ明治政府の高官は三分の一が元静岡藩士(=幕臣)という事態にまでなり、いかに幕臣たちに優秀な人材が揃っていたかを浮き彫りにしたのです。

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