「百済王明信(くだらのこにきしのめいしん)」は、平安京を築いた桓武天皇の最後の恋人として知られています。
ではこの「百済王明信」とは、どのような人物で、桓武天皇との関係はどのようなものだったのでしょうか?
調べてみました!
百済王明信は、その名の通り百済の王家の末裔
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百済王明信は、その名の通り朝鮮半島にあった「百済」という国の王家の末裔です。
朝鮮半島では百済と新羅が長く対立していましたが、あるとき新羅が唐と手を組み百済に攻め入ってきました。
そのまま百済は新羅によって滅ぼされてしまいましたが、百済王家の皇子が日本に亡命していたのです。
日本に亡命した皇子は「百済王」の姓を受け取り、武将として陸奥を平定するほか、金を発見して歴史に名を残しました。
百済王明信と桓武天皇との出会いは「鷹狩り」
百済王家はこのように武や採掘技術で有名でしたが、もう一つ特別な技能を持っていました。
それが「鷹狩り」です。
彼らは百済から伝わった鷹狩りの技術を皇族に教える役割を持ち、それが百済王家の娘の明信と後に桓武天皇となる山部王を引き合わせました。
というのも、山部王の父の白壁王(のちの光仁天皇)は若いころから鷹狩りを好んで百済王家をひんぱんに訪れていたため、そこで山部王と百済王明信は出会ったのです。
ところが山部王の母が百済王家の家来の家系だったことから、2人は結婚することは許されませんでした。
こうして百済王明信は、藤原継縄(つぐただ)という人物の元へ嫁ぐことになります。
桓武天皇は、多くの女性を寵愛するも・・
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月日は流れ、山部王はひょんなことから天皇の座につくことになりました。
そんな桓武天皇が行った政治的なイベントとしては、平安京への遷都がまず挙げられます。
陸奥での蝦夷反乱を抑えながらの遷都事業は、その後長きにわたる平安の時代を築きました。
その一方で桓武天皇は非常に多くの女性を寵愛したことが有名です。
桓武天皇は歴代天皇の中でもっとも側室が多く、多くの臣下に娘を差し出させて広く寵愛したと言います。
しかしそんな桓武天皇も、最後の最後まで手に入らなかった初恋の女性を想い続けていたのでした。
百済王明信は、夫である藤原継縄が亡くなると女官として後宮に呼ばれます。
そして「尚侍」という女官長の立場を与えられ、桓武天皇のもとで後宮を支配することになるのです。
そのときすでに桓武天皇の皇后も亡くなっており、実質的には百済王明信は皇后のような立場でした。
桓武天皇が、百済王明信に送った歌
さて、月日を経てようやく結ばれた2人。
桓武天皇がどれくらい嬉しかったかを知ることが出来る歌が残されています。
古の 野なか古道 あらためば あらたまらむや 野なか古道
(昔通った道がある。そこを通りたいのだが、通ることが出来るだろうか。)
この歌は百済王明信が後宮へ入ってすぐ詠まれた歌です。
昔のとおりに愛し合うことが出来るのかを、なんともストレートに問うた歌ですね。
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