平安時代、藤原北家が政治を牛耳った「摂関政治」はどのような流れで始まったのでしょうか?
簡単に分かりやすくまとめてみました!
前提
藤原氏の4つの家系「南・北・式・京」
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「摂関政治」といえば「藤原」という連想が浮かびますが、正確には摂関政治を行い政治を牛耳ったのは
藤原北家
です。
藤原不比等の4人の子供がそれぞれ家を興し、藤原氏は4つの家に分かれたのです。
それらは
藤原南家
藤原北家
藤原式家
藤原京家
と名乗っています。
「摂政」「関白」とは
摂政とは、天皇が幼かったり女性だったりする際に、政務を補佐する役割を指します。
また関白は、成人した天皇の政務を補佐する役割を指します。
始まりは藤原北家 良房の一人娘「藤原明子(あきらけいこ)」
上に挙げた藤原四家はそれぞれ、天皇家との姻戚関係を築く「政略結婚」で家の力を強めるように努めてきました。
ところがその中でも藤原北家が他家をしのぎ、代々「摂政・関白」という地位に就くことが出来るようになったのはなぜでしょうか?
そこには藤原北家出身の
藤原明子(あきらけいこ)
という一人の娘が関わっていました。
藤原明子は、北家の藤原良房の一人娘です。
母親は嵯峨天皇の皇女の源潔姫(みなもとのきよひめ)でした。
実は良房は、妻はこの潔姫以外めとらず、娘も一人しか持たなかった、当時の貴族としては異例の人物。
というのも、出来るだけ多くの娘を産み、有力者へ嫁がせることが政治力を高める近道だった平安時代です。
有力貴族なら多くの妻を持ち、子供をたくさん作ろうとしたもの。
にも関わらず「娘が一人」ということは、出世のチャンスがそれだけ少なくなるということです。
ところが藤原良房のたった一人の娘が、後に文徳天皇となる皇太子の女御となり、良房に大きな権力をもたらすことになります。
明子は男児(惟人親王)を、絶妙なタイミングで産みます。
皇子は夫の父・仁明天皇が亡くなった数日後に生まれたため、夫の天皇即位と共に皇子は皇太子となることが出来ました。
文徳天皇の死後、皇太子は幼くして天皇へ・・藤原良房が人臣として初めて摂政になる
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こうして藤原北家の良房は、皇太子の祖父になることに成功しました。
ところがさらなるチャンスが、良房に訪れます。
それは、明子の夫・文徳天皇が、32才という若さで亡くなったからです。
そこで明子の息子で良房の孫である皇太子が9才で天皇の座につくことになります(清和天皇)。
しかしまだ9才の清和天皇には政治が務まらないため、代わりに政務を執り行う「摂政」が必要となりました。
その摂政になったのが、当時太政大臣まで昇り詰めていた藤原良房でした。
皇族以外で摂政になったのは、良房が初めてのこと。
しかし良房が摂政の座に就くことが出来たのは、策略でもなんでもなく、幸運だったとしか言いようがないでしょう。
北家が台頭、他家の排斥が始まる
こうして摂政になった良房は、他の有力貴族の排斥を始めます。
良房の死後は養子の基経が摂政に就き、その後年配の光孝天皇が即位した際には「関白」にまで就任。
この後、一時的に摂政・関白が置かれない時期がありますが、長きに渡り藤原北家は政治の実権を握り続けることになるのです。
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