農民から太閤になった豊臣秀吉の人生について、分かりやすく要約します。
豊臣秀吉についてのプロフィール
豊臣秀吉(とよとみひでよし)(1537~1598)
出身:尾張国(今の愛知県西部)
父:弥右衛門(農民)
幼名について:現在語り継がれている「日吉丸」は後の人が作った名前
木綿針売りから一国一城の主へ
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上記の「日吉丸」の幼名と同様、
野伏の頭の蜂須賀小六に起こされて仕えることになった・・
というのも作り話。
実際は木綿針売りをしていました。
やがて今川義元の家臣に仕えることになり、その後織田信長の小者へ。
1561年、お禰と結婚して木下藤吉郎秀吉を名乗り始めます。
はじめは足軽でしたが、しだいに信長に認められて、足軽組頭、さらには足軽大将へと出世しました。
有名な逸話の「墨俣の一夜城」は1566年のこと。
秀吉は驚くほど短期間で、墨俣に一夜城を築きました。
1573年、姓を羽柴と変え浅井長政攻めの責任者に。
浅井氏滅亡後はその旧領(近江)を与えられ、一国一城の主になりました。(小谷城)
天下統一と朝鮮出兵。道半ばの死
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1582年 本能寺の変が起こったことを知ると、いそいで引き返し山崎の戦いで明智光秀を破ります。
さらに信長の後継者を決める清須会議では、信忠の子の三法師をおしたてて実権をにぎります。
翌年、賤ケ岳の戦いではライバルの柴田勝家を破り、
さらに小牧・長久手の戦いで織田信雄・徳川家康と戦い、従わせることに成功します。
そして大阪城を築き、信長の後継者として九州方面・小田原方面の平定に乗り出しました。
またそれと同時に、バテレン追放令、刀狩令などの法令を出したり、太閤検地に取り組んだりしました。
(バテレン追放令:キリシタンの禁止と宣教師の国外追放)
(刀狩令:武士以外のものが持っている武器を没収すること)
(太閤検地:日本全土で行った田畑の測量および収穫量調査)
1597年、二度にわたって挑戦への出兵を行いましたが、失敗。
1598年に病死しました。
(英語版の記事はこちら↓)
Toyotomi Hideyoshi 豊臣秀吉, a son of farmer became first samurai regent in Japan
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