天下統一を目指した風雲児「織田信長」。

彼は短気で残虐というイメージが強いのですが・・

史実の捉え方次第では、意外な一面も見えてきます。

ここでは織田信長の生涯を振り返りながら、見落とされている新しい側面について考えてみました!

織田信長のプロフィール

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織田信長(おだのぶなが)(1534~1582)

出身:尾張国(今の愛知県西部)那古野城

父: 織田信秀

幼名: 吉法師。1546年に元服し、信長と名乗るようになる。

「大うつけ」と呼ばれた幼少期

信長は幼少期、奇行が多く「大うつけ」(どうしようもないやつ)と呼ばれていました。

でもその一方で、

新しい武器である「鉄砲」について調べたり、

町の者と触れ合ったり、

幼少期の徳川家康(織田家の人質だった)と信頼関係を築いていた・・

というように、将来のための行動を確実にとっています。

このようなことを考えると、実は「大うつけ」は見せかけの姿で、

「うつけ」の陰に隠れて、天下を取るための準備を着々と進めていた

としか思えません。

家督争いに勝ち、天下統一を目指す

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1548年 斎藤道三の娘・濃姫と結婚し基盤を強めた信長。

父・信秀が亡くなった後、兄弟同士の家督争いを勝ち抜きます。

その後天下統一への足掛かりとして、桶狭間の戦い(1560年)で駿河・遠江・三河を治めていた強敵・今川義元を破りました。

また、三河(愛知県東部)の徳川家康や近江の浅井長政を味方につけ、徐々に勢力を拡大していきます。

1568年、足利義昭(室町幕府の最後の将軍)をおしたてて京都へ上洛。

手柄として鉄砲生産地や商業都市を手中におさめ、より一層武力を強いものとしました。

その後足利義昭と対立し、朝倉義景・浅井長政、武田信玄と戦いますが、画期的な戦法で勝利をおさめていきます。

改革の推進と「比叡山焼き討ち」に隠された真相

織田信長と言えば政治的な改革でも有名です。

既存の特権を排除し自由取引の場を作った「楽市楽座」

通行人や物からお金を取る「関所の廃止」

などを実行し、商業の発展を図りました。

また敵対する朝倉・浅井を援助していた「比叡山延暦寺」を焼き討ち、皆殺しにしたことは有名。

このエピソードが、信長の残虐さを強めているように感じますが・・

この行為は単なる報復ではなく、

「宗教がその影響力を不当に利用して政治を動かすこと」への戦い

とも考えられています。

比叡山はその力を乱用して、やりたい放題だったのだそうです。

比叡山の被害に遭っていた人たちからすれば、信長は英雄だったのですね。

本能寺の変で無念の自害

しかしこのように整備をつづけ、天下統一目前となった1582年。

京都の本能寺で明智光秀に襲われ、無念の自害を遂げました。

本当は優しかった、信長?

最後に信長の意外な優しさを表すエピソードを一つ。

ある時、秀吉の浮気に怒った秀吉の妻・お禰に、信長は励ましの手紙を贈りました・・

そこには、

「私からみたらお前(お禰のこと)は、ハゲネズミ(秀吉)にはもったいない」

と書いてあります。

部下の夫婦仲を心配してくれるなんて、意外と良い上司かも!?

歴史には語られていない側面が、たくさんあるのですね。

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