織田家の古くからの家臣「柴田勝家」について、その生涯を分かりやすく要約しました。

柴田勝家のプロフィール

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柴田勝家(1522-1583)

出身国:尾張国(現在の愛知県西部)

柴田家は織田家の代々の家臣だが、勝家は初め信長の弟である信行を支持していました。

そのため信長の怒りをかっていたものの、許された後は戦で度重なる活躍ののち、重臣の筆頭になりました。

北陸平定に成功し、信長に認められる

1570年、勝家は越前国での一向一揆を織田勢の総大将として治め、そのまま越前国を任せられるようになります。

そして対・上杉謙信の最前線として、北ノ庄城(きたのしょうじょう、今の福井城の場所に建てられた)を築城。

1577年の戦では上杉謙信に大敗するも1578年に謙信が死去しました。

その後加賀、能登、越中など北陸地方の平定を開始し、1580年には加賀・能登を平定。

勝家は信長にその功績を認められ、織田家の筆頭家老として認知されました。

賤ケ岳の戦いで秀吉に敗れ・・愛妻お市の方と自害

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しかし1582年、越中平定中に信長が急死すると状況が一変します。

越中制圧に手間取った勝家は京都へすぐに向かうことが出来ず、出し抜いた羽柴秀吉に主導権を握られてしまいました。

その後織田家の主導権をあらそった「清州会議」でいったん和解したと見せるも、1583年に賤ケ岳の戦いで秀吉と激突します。

重臣の判断ミスや裏切りにあい劣勢となった勝家は、北ノ庄城にて自害しました。

この時ともに自害をしたのは、清須会議のあとに勝家に嫁いだ信長の妹・お市の方。

(お市の方の生涯についてはこちらの記事を参照ください↓)

「戦国女性の哀しみを象徴「信長の妹・お市の方」の生涯」

勝家は主君の妹で美貌のお市の方を愛していたといいますが、お市の方は無理やり嫁がされた身です。

それもたった一年の結婚生活。

それでも夫とともに自害を選んだのは、お市の方の意思のようです。

そこに愛はあったのか・・は分かりません。

でも柴田勝家は器の広い、温情のある人物だったとのこと。

裏切った部下の行く末まで案じるような人物であったと複数の人物が記録していることから、魅力ある武将だったことに間違いはありません。

お市の方も勝家を尊敬して、ともに自害を選んだのだと思いたいですよね。

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