天下統一を果たし江戸幕府を開いた「徳川家康」。
その人生は大変濃密なものでしたので、ここでは分かりやすく要点のみまとめてお伝えします!
要点だけ解説!江戸幕府の初代将軍 徳川家康の生涯
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徳川家康(1542~1616)の基本情報
父:三河国岡崎城主(今の愛知県岡崎市) 松平広忠
母:於大の方(おだいのかた)
幼名:竹千代
人質だった、幼少期から少年期
徳川家康は6才から19才のあいだ、他家の人質として生きました。
送られたのは、最初は織田信秀。
次は今川義元のもとです。
人質として生活しながらも、今川義元は自分の養育係でもあった太原雪斎に教育を任せ、家康へ武将としての英才教育を施しました。
人質生活が終わったのは1560年のこと。
今川義元が桶狭間の戦いで戦死し、岡崎城へ帰還することになります。
13年にもわたる長い人質生活。
その生活の間に、後に天下を取るために必要だった忍耐力を養うことが出来たと言えるでしょう。
武功をたたえられた青年期から壮年期
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1572年 武田信玄と三方ヶ原の戦いで敗れましたが、その戦いぶりを称えられて「海道一の弓取り」と呼ばれるようになります。
1575年 長篠の合戦では信長と同盟して宿敵武田氏をやぶり、三河・遠江(今の静岡県西部)を完全に領土とします。
さらに駿河(今の静岡県中部・北東部)も領国に加えました。
1582年 本能寺の変で織田信長が自害した後、政権をとった豊臣秀吉によって関東を任され、以後江戸城を居城とするほか、五大老を任されました。
長い忍耐の末に・・天下をとる
1600年 関ヶ原の合戦で大勝し、1603年には征夷大将軍となり江戸幕府を開きました。
1614、1615年には大阪冬・夏の陣で豊臣氏を滅亡させ、家康の天下統一事業もようやく完成します。
この時すでに老年期に入っていた家康。
この翌年、1616年に75才の生涯を駿府で閉じ、徳川家の守り神として日光にまつられました。
(家康の死については、こちらの記事を参照ください↓)
「家康の死因「天ぷら」を食べさせた人物「茶屋四郎次郎」の本当の功績」
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