有名な「三本の矢」の教えを残した「毛利元就」。
その毛利元就の生涯について、分かりやすく要約してみました。
三本の矢の教えについても、この記事の末にまとめてあります!
毛利元就のプロフィール
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毛利元就(1497-1571)
出身:安芸国(現在の広島県西半部)
父:安芸国郡山城主 毛利弘元
次男として生まれたが、兄の死・兄の子の死によって家督を継いだ。
中国地方10カ国を支配するまで
足がかりとなった安芸国の統一
もともと中国地方は尼子氏が治めていました。
尼子氏は、室町幕府で出雲守護代を務めた家柄です。
毛利元就も、尼子氏の支配下にいました。
しかし周防国(今の山口県)を治める大内義興と結託し、尼子晴久を破ります。
そして安芸国を分けて統治していた小早川氏、吉川氏と姻戚関係を結ぶことで、安芸国の統一をすすめました。
(木村城小早川氏へ三男・隆景(たかかげ)を、駿河丸城、小倉山城の吉川氏へ次男・元春を養子として送った)
尼子氏を滅ぼし中国支配へ
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周防国を治めていた大内義隆が重臣の陶晴賢(すえはるかた)※に謀反により討たれると、大内氏の権力は傾きます。
※陶晴賢については記事を作成中です
その弱体化した大内氏をついたのが毛利元就でした。
毛利元就は厳島の戦いで大内氏と陶晴賢を倒し、安芸、周防、長門(今の山口県西半分)を平定します。
ついで備後(広島県東部)、備中(岡山県の西部)、石見(島根県西部)の豪族を従わせることにも成功。
1566年に尼子氏をたおし、中国地方10カ国を治める戦国大名となりました。
「三本の矢」の教訓
毛利元就の「三本の矢」の教えは、改めて説明する必要が無いほど有名かもしれません。
「一本ずつでは折れやすいが、三本合わせればなかなか折れない」
という内容ですが、矢を渡した相手は元就の三人の子供です。
先にも述べたとおり、息子たちは安芸国の統一のためバラバラとなりました。
長男・隆元は家督を継ぎ、次男は吉川氏へ、三男は小早川氏へ養子に。
その3人が力を合わせたからこそ、毛利元就は中国地方を統一できたのでしょう。
ただしこの「三本の矢」の教えは、中国の故事をまねて作ったともいわれています。
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