フランシスコ・ザビエルが日本へキリスト教を伝えたのは1549年のこと。
その後数々の大名が洗礼を受けキリシタン大名と呼ばれるようになりました。
ここでは日本で初めてキリシタン大名になった大村純忠と、彼が関わった「天正少年使節」についてお伝えします。
日本で最初のキリシタン大名・大村純忠
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大村純忠は肥前国(今の佐賀県、長崎県)の有馬清純の次男として生まれました。
その後、大村家の養子となります。
そんな大村純忠がキリスト教の洗礼を受けたのが1563年のこと。
冒頭にも書いた通りザビエルが日本へキリスト教を伝えたのは1549年のことなので・・
キリスト教が日本に来て14年目にして、ようやく大名まで広がったということなんですね。
ちなみに大村純忠が洗礼を受けたその頃。
ザビエルは既に日本を後にし、中国の地で亡くなったのだとか。
大友純忠は洗礼名をドン=バルトロメヨと名乗り、戦へも首にロザリオをかけて出陣したそうです。
また1570年には長崎港を開き、ポルトガルと貿易も始めました。
同じ九州の大名、大友氏や有馬氏も同様にキリシタン大名となり、両氏とともにローマ法王へ少年使節を派遣しています。
戦国時代にローマへ行った、天正少年使節
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大村氏、大友氏、有馬氏がローマへ少年使節を派遣したのは1582年のこと。
4人の少年が代表者として遣わされ、じつに二年半もの年月をかけてポルトガルへ辿りつきました。
メンバーは
伊東マンショ
千々和ミゲル
原マルチイノ
中浦ジュリアン
みんな出発のときは10~15才くらいだったそうです。
ポルトガルへ着いた一行は、その後スペインを経てローマへ。
無事に大任を果たして、八年後の1590年に長崎へ帰ってきました。
気の遠くなるような長旅ですね。
おまけに今でこそテレビでヨーロッパの様子も言葉も知ることが出来ますが、当時は全くの別世界。
本当に勇気がいる旅だったと思います。
ちなみに4人の少年は帰国後も布教を続けましたが、やがてキリスト教の弾圧が厳しくなります。
信仰を捨てた千々和ミゲル以外は国外追放(原マルチイノ)、処刑(中浦ジュリアン)など、悲しい末路をたどりました。
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