関ヶ原の戦いは家康 V.S. 石田三成というイメージがあるので驚いてしまうのですが、負けた関ヶ原西軍の総大将は光成ではありませんでした。

総大将は「毛利輝元」。

あまり知られていない、敗軍の将「毛利輝元」の評価と関ヶ原の合戦後の毛利家の処分について要約しました。

毛利元就の後継者・毛利輝元

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毛利輝元(1553-1625)

出身国:安芸国(今の広島県西部)

父:毛利隆元(もうりたかもと)

祖父は毛利元就。

父・隆元が毛利家を継ぐ予定だったが早死にしたので、元就の死後毛利家を継ぐことになりました。

家督を継いだ後はおじの吉川元春、小早川隆景に助けられて、中国地方へ進出する織田信長と戦いますが、信長の死後は羽柴秀吉に距離を置いて静観します。

しかし羽柴秀吉が賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破ると、秀吉を天下人として距離を縮めました。

その後は朝鮮出兵などで秀吉を助け、五大老(豊臣政権で政務をとる有力者5名)の一人となります。

関ヶ原の戦い「総大将なのに戦わず」

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1600年の関ヶ原の戦いでは、石田光成が参謀をつとめる西軍の総大将となり大阪城へ入ります。

ところが総大将と言いながら、実は石田三成によって担ぎ挙げられただけ。

光成は自分が総大将になりたくなかったので、輝元へ押し付けたのです。

その動きに不安感を抱いた輝元のいとこ(毛利元就の次男の子)吉川広家が徳川方と秘密裏に交渉し、毛利勢が関ヶ原の戦いに加わらないことを条件に毛利家を守ろうとします。

一方、肝心の輝元は、徳川家康と交わした口約束(毛利家の領地は安堵する)を信じ大坂城をあっさりと明け渡してしまいました。

そんな輝元に対して、祖父の毛利元就も「情けない」とこぼしていたと言います。

関ヶ原の合戦後、毛利家に下された処分

敗軍の将である毛利輝元は、その後実際にどうなったのでしょうか?

初めに下された処分は「周防・長門への移封と毛利家を吉川広家へ譲ること」という、当然ながら厳しいもの。

しかしこれも広家の尽力により、輝元が隠居することで輝元の子・秀就が毛利家の家督を継ぐことを許されたのです。

広家のおかげで何とか首の皮一枚つないだ毛利家。

これには輝元自身も、自らの無力さを嘆いたことでしょう。

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