関ヶ原の戦いで先陣をとり岐阜城を攻めた「福島正則」

その活躍にも関わらず、彼は後に改易(身分を平民に戻し領地を没収されること)させられてしまいますが、その理由は?

福島正則の生涯と共にお伝えします。

福島正則のプロフィール

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福島正則(1561-1624)

出身国:尾張国(いまの愛知県西部)

父:福島正信(武将ではなく桶屋を営んでいた)

母:豊臣秀吉の叔母

秀吉に仕え活躍。清州城主になる。

母が豊臣秀吉の叔母だったため、幼いころから秀吉に仕えました。

1583年の賤ケ岳の戦いで功績をあげ、五千石の領地を与えられます。

後に伊予国(いまの愛媛県)十一万石の大名となり、小田原征伐・朝鮮出兵でも活躍します。

その功績を認められ、1595年には清州城主となり、二十四万石を領しました。

関ヶ原東軍の先鋒をつとめ、広島城主となる。

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秀吉の死後、徳川家康とつながりを強めた福島正則は、関ヶ原の戦いにいち早く参加。

東軍の先鋒をつとめ宇喜多秀家勢と戦い、撃退します。

その活躍が認められ、関ヶ原の戦い後、正則は広島城主となりました。

家康の死後、改易に。そこに至った不手際とは?

一介の桶屋の息子から大名となったものの、家康の死後、正則の人生に陰りが生じました。

数々の不祥事が重なり、最終的には改易(領地を取り上げられる)にまでなってしまいます。

発端は、水害で生じた広島城の被害を無断で修復したことでした。

この「城の無断修復」が、「武家諸法度」に違反した罪に問われたのです。

いったんは取り成したものの、報告以外の個所を修繕したことにより再度咎められます。

また人質として江戸へ送るはずだった息子の出発を遅らせたことも、将軍の怒りを買いました。

それにより越後国高井野藩四万五千石に移封となります。

正則は家督を息子に譲り隠居しますが、息子も早世。

正則もその死後わずか4年後に亡くなりましたが、その際の埋葬の手順を怠ったため、全領土を没収されてしまいました。

後半生の不運から見える、正則の性格。

「改易となった」と聞くと不運にも聞こえますが、そこに至るまでの流れを見ると、正則の落ち度が大きかったことを認めざるを得ません。

正則について残されているエピソードには「乱暴・粗暴」といったイメージのものが多いそうです。

人を軽く見て、迂闊な物言いも目立ったようなので・・

武家諸法度に違反しての改易は起こるべくして起こったのかもしれません。

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