熊本地震で一部が崩れてしまうも、その形をとりとめた「熊本城」。

もともと石垣の作りが「地震にもっとも耐えうる構造」だったということですが・・そんな、頑丈な熊本城を建てた人物は「加藤清正」です。

ここでは加藤清正の人物像と、彼の建てた熊本城が突出している点をお伝えします。

武将・加藤清正の人物像

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加藤清正は尾張国(いまの愛知県西部)で生まれ、幼いころから羽柴(豊臣)秀吉に仕えました。

「築城の名手」と言われますが武勇でも名高く、賤ケ岳の戦いでは七本槍の一人に数えられるほどの功績をあげました。

忠義心が強く、負けず嫌いな性格

清正の人となりを考えたときに「忠誠心が強い」「負けず嫌い」という性格が挙げられます。

そんな、いかにも勇猛な武将らしい清正。

その性格が伺えるエピソードが幾つも伝えられています。

秀吉への忠誠心が伺えるエピソード

・朝鮮出兵の際「虎を食べたい!」という秀吉のために人喰い虎の喉を串刺しにして秀吉に差し出した。

・石田三成を批判した罪で秀吉に謹慎を命じられるが、伏見城を大地震が襲うと誰より早く参上。秀吉を守った。

負けず嫌いな性格が伺えるエピソード

領土が隣りあっているために不仲だった清正と小西行長。

朝鮮出兵の手柄でも「行長には負けまい」と、思わず当初の予定地よりもはるか北まで行き過ぎてしまったとか。

築城の名手・清正が建てた「熊本城」の特徴

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そんな武将としての側面とは別に、築城の名手としての一面も持っていた清正。

勇猛さとはまるで相反するように、緻密な築城技術だったようです。

熊本城が築城されたのは、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて。

大小の城郭が複雑な迷路でつながり、抜け穴も幾つも用意されていたほど、完璧に敵の襲来に備えていました。

現代でも抜け穴はまだ二つの出口しか発見されていませんが、もっとあるのでは?と考えられています。

また、朝鮮出兵の際に石積み技術を学んできた清正は、当時としては最も進んだ方法で石垣を造成します。

熊本城の石垣は弓上になっていますが、これは「武者返し」とよばれ他者の侵入を防ぐものでした。

実用的であると同時に優美さを兼ね備えています。