「伊達政宗」は大坂夏の陣を予見するなど先見の明が溢れる一方、クレイジーで恐ろしい面もあったと言います。
そんな伊達政宗の人物像が分かるエピソードをお伝えします。
伊達政宗のプロフィール
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伊達政宗(1567-1636)
出身国:陸奥国(いまの福島、宮城、岩手、秋田、青森県にまたがる部分)
父:伊達輝宗
幼名:梵天丸
始め奥州の一豪族に過ぎませんでしたが、領地から採れる砂金を使って東北の一大勢力になりました。
さらには足利将軍家に金を贈り、奥州の守護職として代々任されるようになります。
伊達政宗の人物像を表すエピソード
天然痘を患い右目を失明。実母に毒殺を謀られるなど壮絶な幼少期を生き抜く
伊達政宗といえば「独眼竜」と呼ばれ、片目であったことが有名ですが、それは幼いころに天然痘を患い右目を失明したためです。
しかしドラマのように刀のつばを使って眼帯にしていたという史実はなかったとか。
また実は失明しておらず、オッドアイだった(片目だけ色が違った)だけという説も残っています。
ともあれ「片目の武将」ということが、後の人々にドラマティックな印象を与えたことは事実でしょう。
またドラマティックと言えば、その生い立ち。
「実母に毒殺されかけた」というエピソードが残っています。
実母は政宗の実弟・小次郎を偏愛しており、家督を小次郎に継がせるために毒殺を謀ったとか。
政宗は毒をあおったものの毒消しを飲み事なきを得ますが、弟の小次郎はこれを理由に殺害されました。
・・ところがこの事件は「実は政宗によって仕組まれたものだった」という説もあります。
全ては「小次郎を殺すために」政宗が自作自演したこと・・なのかもしれないのです。
父殺しにまつわる疑惑・・邪魔なものは皆殺し?
実の弟殺しの疑惑に続いて、父殺しの疑惑も残っている政宗。
その事件が起こったのは、政宗が家督を継いですぐのことでした。
政宗が家督を継いだすきをみて、伊達家と対立する大内定綱と畠山善継が対抗してきたのです。
政宗はそれに激怒し、まず大内定綱の城のものを皆殺しに。
また畠山善継も、善継に拉致された政宗の実父輝宗とともに鉄砲で殺されたのでしたが・・
この出来事もまた「実は政宗の陰謀だったのではないか」と言われています。
秀吉と対立するも従属。しかしあくまでも、天下を見据え続ける
伊達政宗が家督を継ぎ勢力を拡大しようとしたころ、既に豊臣秀吉が天下を治めようとしていました。
秀吉は政宗を従えさせようとしますが、政宗は何度もそれを無視します。
ところが秀吉の小田原征伐への参戦が遅れたことから会津を没収されるなど、秀吉との圧倒的な力の差を見せつけられた政宗は、秀吉に従うことになったのでした。
ただ、政宗は豊臣家に仕えて終わろうという気はなかったようです。
あくまでも政宗の関心は自分が天下を取ること。
この証拠として、秀吉の次は家康が有力者になると悟っていた政宗は、長女と家康の六男と婚姻関係を結ばさせます。
また関ヶ原の戦いが終わった後は、大坂夏の陣を予見し天下が揺れることを見逃さなかったり、外国との同盟を結び力を増強することを企てヨーロッパへ使節団を送るなどしていました。
(しかし外国との同盟は、後に鎖国となったためにかないませんでした)
まとめ:政宗は常に自分の目標に忠実な人物だった
以上のことからもわかるように、政宗はどんな状況でも、自分の目指す目標に貪欲に向かいつづけていたようです。
天下を取ることこそ出来なかったとはいえ、江戸幕府の徳川将軍家も戦国の世を第一線で生き抜いた伊達政宗に対し尊敬の念を持っていました。
また上記のような残虐なエピソードの半面、新しい文化を取り入れたり、領国経営に力を入れたという側面もあります。
武だけでなく文化人・政治家としても多彩な才能を発揮していたようです。
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