天下統一を終えた豊臣秀吉は、1592年と1597年の二度にわたり朝鮮へ出兵しています。
この記事では、二度の朝鮮出兵の目的やそれぞれの戦いの経過について、分かりやすく解説します。
秀吉が朝鮮へ出兵した本当の目的
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豊臣秀吉が朝鮮へ出兵した目的、みなさんは学校でどのように教わったでしょうか?
私は「止むにやまれず、領土を増やすため」と教えられました。
日本が統一され武士たちに恩賞として与えられる土地が無くなったので、朝鮮と明を征服し新しい土地を増やそうとしたのだと。
ところが、秀吉が朝鮮出兵した目的については諸説あります。
真偽のほどは分かりませんが、ここでは有名な説を二つ紹介します。
「明を支配して一大国家を作る」秀吉の野望説
一つ目は「秀吉の支配欲によるもの」とされる説です。
もともと「中国まで支配を広げる」という野望は織田信長が描いていたようですが、信長に代わって天下を統一した秀吉が、自分の力を過信して明まで勢力を拡大しようとしたとも考えられています。
朝鮮出兵は、そのための足がかりでした。
「スペインからの侵略を未然に防ぐため」とされる説
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二つ目に、「スペインからの侵略を未然に防ぐため」とする説。
当時世界中に植民地を作っていたスペインが明を侵略すれば、日本の安全も脅かされます。
そのため「スペインに明を奪われる前に、日本が奪おう!」としたのだとか。
ところが結果的には、日本の朝鮮出兵は失敗に終わり、明を征服することは出来ませんでした。
しかしこの出兵のおかげで日本の武力を世界にアピールでき、日本がヨーロッパ諸国から侵略されないで済んだと考えられています。
どの説が正しいの?
これらの説は、一見どれも正しそうに感じられます。
ただし私は、「スペインからの侵略に備える」という説には疑問が。
だって「守りの要めだから明をおさえよう」としたところで、明はそうするにはあまりにも広大で力がありすぎる国です。
そこをなんとか征服したとして・・その時日本は半死半生ではないでしょうか。
そこをスペインに突かれたら、簡単に日本は征服されてしまいそうです。
冷静に考えれば、「日本だけでなく世界も統一するぞ!」という秀吉のファンタジーの方が、納得しやすいです。
最初の出兵「文禄の役」の経過
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秀吉はいきなり朝鮮へ出兵したのではなく、出兵の前に朝鮮へ使いを送りました。
その内容は、「明へ攻めるから道案内をせよ」と命じるもの。
ところが朝鮮がこれを断ったので、1592年に第一回の出兵「文禄の役」がおこります。
秀吉の軍は始め勢いが良く、ソウルを落とし明からの援軍も破りました。
しかし戦いが長引くにつれて日本は不利に。
ここで明側から停戦を申し入れてきたことから、秀吉は朝鮮から軍を引き上げました。
秀吉の死で幕が引かれた二回目の出兵「慶長の役」
しかし停戦の話し合いは、秀吉の思い通りにはなりませんでした。
そこで秀吉は、1597年に再び大軍を朝鮮へ送ります。
これを「慶長の役」と呼びます。
この戦いでは朝鮮側の抵抗が激しく、日本軍はあちこちで苦戦しました。
そこへ豊臣秀吉が死去してしまったことで、日本軍は撤退することになりました。
秀吉の死後、朝鮮との国交は
秀吉の死後、再び朝鮮へ出兵するかどうかで家臣同士が対立しましたが、結局朝鮮との和平への道が選ばれました。
和平の交渉を担ったのは徳川家康です。
しかしその交渉は長く続き、和平が果たされたのは二代目将軍・徳川秀忠になってから1607年のことでした。